西暦296年、景行天皇、九州巡幸

(邪馬台国の滅亡)

宗像の「珂是古(かぜこ)」

宗像大社

福岡県宗像市の「宗像大社」。

宗像大社は律令時代に、「神郡」という神社の"領土"が認められていたことで有名だ。


神郡は他にも「伊勢」「出雲」「鹿島」「香取」「安房」「日前國懸」にも設置されていて、教科書的には神格の高い神々ということになるが、元々の奉斎氏族の顔ぶれ(度会氏、忌部氏、多氏、物部氏、紀氏)などを見ると、ヤマトの勢力拡大への貢献度の大きさが、評価された面があったような気がしないでもない。


出雲国の神郡が、出雲郡ではなく意宇(おう)郡だった点が、何となくそんな気にさせる。

神でなく、人に与えられたものだろうと。

七夕神社(媛社神社)

七夕神社(媛社神社)

「肥前国風土記」に不思議な話がのっていた。


年代は定かでないが、「筑後」の山道川のほとりに「荒ぶる神」がいて、通行人の半分を殺していたという。

その神は「筑前」の国、宗像郡の「珂是古(かぜこ)」に自分を祀らせば、祟りをやめるという。


それで宗像から「珂是古」がやってきて、「幡(はた)」を飛ばして神の居場所を探したところ、最初に幡が落ちたという場所に鎮座するのが、小郡市の「七夕神社(媛社神社)」だ。

阿射加神社

阿射加神社

神が祭祀を要求する話というと、まず思い浮かぶのが、三輪山の「オオモノヌシ」が自分の子孫に祭主を命じた大神(おおみわ)神社」の創建説話(日本書紀)。


あるいは伊勢の「安佐賀(あざか)」の社の縁起になった、かつて自分を征服した人間の子孫に、自分を祀らせた「荒ぶる神」の件(伊勢国風土記逸文)。


七夕神社のケースは後者に当たると思われるが、だとすると宗像の珂是古の先祖には、「筑後」の何者かを征服した人がいたんだろうか。

高良大社の「御客座」

高良大社

ところで第12代景行天皇の熊襲征伐は、長浜浩明さんの計算だと西暦296年に始まったが、つづく九州巡幸では、地元の豪族たちが積極的に天皇に協力している様子が、文献に見える。


「肥前国風土記」では「阿曇連」が皇軍の先兵として、威力偵察や賊の捕縛を行っている。


日本書紀では、「水沼君」が天皇に八女(やめ)の山中に鎮座する「八女津媛」について説明する場面がある。

「先代旧事本紀」によれば、水沼君は「物部氏」の一族だ。

白鳥伝説

そんな阿曇と物部が、祭祀に深く関与したのが、筑後国一の宮「高良大社」だ。

『白鳥伝説』(谷川健一)によれば、高良大社の祠官のうち「小祝」を安曇氏がつとめ、「大祝」を物部氏がつとめてきたんだそうだ。

氷川神社の「門客人神社」

氷川神社の「門客人神社」

その高良大社の本殿には「御客座」があって、そこには「豊比咩(とよひめ)大神」なる神さまが鎮座している。


この神さまは元は名神大社で独立した社に鎮座していたが、古い記録を見ると、鎮座地は高良大社と同じ場所だったそうだ。

ならば豊比咩大神は、高良大社の主祭神と同じ祭祀を受けていたのだろう。


高良大社の主祭神の「高良玉垂(たまたれ)命」は、タレのところが「大足彦(たらしひこ)尊」のタラシに通じるからといって、その本体を景行天皇だと見る説もある。

それが本当だとすると、「豊比咩大神」は「景行天皇」と一緒に、物部氏や安曇氏の手で祀られていたことになる・・・。


「客神」と聞いてぼくが思い出すのが、武蔵国一の宮「氷川神社」の摂社「門客人神社」だ。


地主神がその土地をうばわれ、後来の神と主客の立場を転倒させた」状態を客神というと『白鳥伝説』には書いてあって、氷川神社でいえば、後来の神が、現在の祭神の「スサノオ」、地主の神が「アラハバキ」なんだそうだ。


同じ理屈で考えるのなら、豊比咩大神が筑後の「地主の神」で、景行天皇が「後来の神」になるんだろうか。

筑紫平野の消えた集落

増補版 邪馬台国論争の新視点 - 遺跡が示す九州説 -

纒向遺跡の発掘を担当した関川尚功さんによると、奈良盆地と北部九州の交流が始まったのは、庄内式の終わり頃、西暦290年前後だろうという話だ。


そしてそれに続く時代、筑紫平野では奇妙な現象が見られるようになっていた。


地元の専門家、片岡宏二さんによると、福岡県朝倉市の「平塚山の上遺跡」では古墳時代前期初頭までに、2.45ヘクタールの調査区内に、213軒の住居と167棟の掘立柱建物が建てられていったのだという。


ところがその集落は人口が最大化したあと、ふいに人間がいなくなったらしい。

この住居跡の密集度がそのまま東の台地一帯に続くとなると空恐ろしい集落になってしまう。

時期別の住居の数を比較すると、時代が下るにつれその数を増し、最後の古墳時代前期初頭で最大になりながら突然消えてしまう

なにもここだけの現象ではなく、蒲原宏行が佐賀平野でも分析しているように、この段階で筑紫平野の集落は突然姿を消してしまう。

(『増補版 邪馬台国論争の新視点 - 遺跡が示す九州説 - 』2019年)

もちろんホントに人間が「消失」したわけじゃなくて、彼らはどこかに移動して行ったんだろう。

すると同じ頃、もう一つ九州から他の場所へ移動していったものがある。


お墓に副葬されていた「銅鏡」だ。

筑紫平野から消えた銅鏡

県別画文帯神獣鏡の出土数

(出典『データサイエンスが解く邪馬台国』)

古代史家の安本美典さんの調べによると、3世紀後半までの銅鏡の出土数は圧倒的に福岡県に集中していて、「いわゆる西晋鏡」だと福岡県33面に対して大阪6面、奈良1面という比較にならない大差がついていたそうだ。


ところが4世紀になると「図27」のとおりで、畿内が大逆転を果たす。


そもそも鏡の副葬は九州北部の文化だったので、素直に考えれば鏡というモノだけではなくて、それを文化にするヒトも畿内に移動したということだろう。


古代の大規模な人間の移動については、日本書紀にも記述がある。


第10代崇神天皇が「四道将軍」を派兵して近畿の外縁を平定させたときには、都に「異俗の人たち」が大勢やってきたとある。

景行天皇の皇子ヤマトタケルは、東征で捉えた「蝦夷(えみし)」たちを伊勢神宮に献上した、ともいう。


あとの時代になるが、鹿児島の隼人は畿内に移住させられたし、蝦夷には「俘囚」という歴史もある。

邪馬台国の滅亡

邪馬台国の原像

高名な歴史学者の平野邦雄さんは、3世紀から4世紀の(いわゆる)「東夷」の政治過程には共通性が見られるという。

具体的には国王の「共立」に象徴される"諸国連合"から、統一的な王権の成立へという流れだ。

白鳥庫吉、橋本増吉両氏が、邪馬台国九州説をとった一つの大きな理由が、三世紀に、朝鮮半島における韓族が、小国分立の状態にあったとき、倭のみが、畿内ヤマトによる統合を遂げたはずはなく、畿内の勢力は九州におよばず、九州でも北部の女王国と、南部の狗奴国を中心とする二大政治圏に分かれていた。

(『邪馬台国の原像』2002年)

「倭国」では女王・卑弥呼が亡くなると、千余人が死んだという殺し合いが起こり、13才のトヨ(イヨ)を王に建てることで一旦は沈静化した。

ところが265年には朝貢していた「魏(ぎ)」が滅ぼされ、トヨは魏を滅ぼした「晋(しん)」に近づいて安全を図ろうとする。

280年には「呉(ご)」までが亡び、半島では高句麗につづいて馬韓(のちの百済)や辰韓(のちの新羅)にも、国家形成の動きが起こっていた。


こんな外部状況で、もしもトヨが死んだらどうすればいいのか。

我々はまた、不毛な殺し合いをしなければならないのか。

我々にはもっと大きくて安定した、政治と祭祀が必要なのではないか。


と思ったかどうかは知らないが、寄らば大樹のかげ、長いものには巻かれろとばかりに、北部九州の王たちが語り合い、畿内にも同族の多い物部氏を通じて、自らヤマトを呼び込んだのだとしたら、どうだろう。

まぼろしの邪馬台国

(「まぼろしの邪馬台国」2008年)

かくして邪馬台国連合は、自壊した。


そこらが記紀に書いてないのは、それが皇室の与り知らぬところで起きてた地方の政変ゆえ、いちいち記載する理由がないから。

それに、邪馬台国やら卑弥呼やらは中国人が勝手に呼んでた名前なので、これまたヤマトの人たちには知る由もないから。


やがてヤマトから巡幸してきた景行天皇は、大陸からの亡命者や、より安全な生活を求める「倭人」には近畿方面への移住を勧め、ヤマトへの忠誠を誓う首長層には「杯」を与え?、前方後円墳の造営を許した、とか。


トヨはどうなったのか?

高良大社の豊比咩になって丁重に祀られた、と言いたいところだが、それはただの語呂合わせだろうか。

ちなみに、945年に成立した『旧唐書』にはこんなことが書いてある。

日本は、古くは小国であったが、その後、倭国の地を併合した」と。


※1060年成立の『新唐書』には反対に読めることが書いてあるが、常識的に考えて、古い方が事実に近いことを伝えてると思う。


西暦310年、日本武尊の東征(1) 伊勢の海人と尾張氏につづく