出雲神話③カミムスビの宮殿
〜命主社〜
日本書紀と古事記のカミムスビ
2022年秋に参詣した出雲大社の境外摂社で、カミムスビ(神皇産霊尊)を祀る「命主社(いのちぬしのやしろ)」。
カミムスビの名前は、正史・日本書紀の正伝(本文)には出てこない。
第一段(天地開闢)第四の一書(別伝)の"さらに別伝"として、名前だけが一回出てくるのみだ。
一方、古事記のカミムスビ(神産巣日神)には存在感がある。
まず「造化三神」の一柱として登場。
つづいては、スサノオが殺害したオオゲツヒメから種子を回収。
オオクニヌシには協力的で、八十神に焼けた石を落とされて死んだときには蘇生させてやるし、わが子のスクナヒコナに国作りの手伝いをさせたりもしている。
出雲国風土記のカミムスビ
(島根県公式サイト)
どことなく古事記と世界観を共有してるような「出雲国風土記」にも、カミムスビ(神魂命)の話題が収められている。
風土記では「島根郡」「楯縫郡」「出雲郡」「神門郡」に名前があることから、宍道湖の北西部にカミムスビの信仰圏があったようだ。
なかでも「出雲郡」と「神門郡」には「天の下をお造りになった大神、大穴持の命」(オオクニヌシ)が、カミムスビの娘に求婚したというエピソードが残っていて、やはり政略結婚による地域併合とかを意味してるんだろうか。
カミムスビとタカミムスビ
また、面白いことに「楯縫郡」には、カミムスビが、オオクニヌシの宮殿(天の日栖の宮)を造営したという記事がある。
楯縫と名づけた理由は、神魂の神が、「私の十分に足り整った天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の規模に倣って、千尋もある拷縄を使い、桁梁をしっかり結び下げて、この天上界の尺度をもって、天の下をお造りになった大神の宮を、お造りしてあげなさい」とおっしゃって、御子の天御鳥(あめのみとり)の命を楯部として、天上界からお下しになった。
(『風土記(上)』角川ソフィア文庫)
ところがスクナヒコナの件も同じだが、似たエピソードを日本書紀は、タカミムスビ(高皇産霊尊)の言動として収録している。
またおまえが今後住まうべき天日隅宮は、いま余が作ってやろう。
その敷地の規模は千尋の長さの拷縄(楮の繊維で編んだ丈夫な縄)を百八十結びにしっかりと結んで設定しよう。
その宮殿建築の制式は、柱を高く太く、板を広く厚くしよう。
また御料田を供しよう。
またおまえが海への往来に通行するための道具として高橋・浮橋と天鳥船を作ってやろう。
(『日本書紀(上)』中公文庫)
さてさて、カミムスビとタカミムスビ、どちらがオリジナルで、どちらが「いただき」なのか。
オオクニヌシを見捨てた古事記のカミムスビ
この葦原中国は、仰せのとおりに献上いたします。
ただ、私の住処については、天つ神の御子孫が天つ日継を承け、統治なさる立派な宮殿そのままに、大地の岩盤に柱を太く立て、天空に千木を高々とあげてお作りくださるならば、私は道の曲がりの数多くの果てに、隠れておりましょう。
(『古事記』角川ソフィア文庫)
なるほどオオクニヌシを蘇生させ、その国作りにも協力したカミムスビだが、国譲りの局面では姿を現すことなく、孤立無援のままオオクニヌシは国を失った。宮殿なんか造ってくれはしないのだ。
そこに複雑な思いがあったのか、使者タケミカヅチを饗応したオオクニヌシの最期の言葉には、唐突にカミムスビの名が・・・。
この、わが鑽れる火は、高天の原においては、カムムスヒの祖神様が、ひときわ高くそびえて日に輝く新しい大殿に、竈の煤が長く長く垂れるほどに焚き上げられるがごとく、いつまでもいつまでも変わらず火を焚き続け(以下略)
(『口語訳 古事記』三浦佑之)
天つ神への服従の誓いを叫びながら、高天原のカミムスビの宮殿に思いを馳せるオオクニヌシ・・・。
彼の血の涙が見えるかのようだ。
いやー、古事記って本当によくできた「物語」だ。ドラマチックすぎる。
宮殿の説明をしない古事記
ところで、日本書紀の成立は720年、出雲国風土記は733年、古事記はその序文によれば712年ということだが、「宮殿」にだけフォーカスしてみると、古事記の方が引用的というか、他の書の宮殿を「前提」に話を進めている印象が、ぼくにはある。
なんといっても古事記の「宮殿」の描写は、シンプルというか、大雑把すぎる。
それがすでに世間でよく知られたことだったから、省略しても問題ないと考えた可能性はないんだろうか。
その点、日本書紀のタカミムスビは雄弁で、初代iPhoneの発表をするスティーブ・ジョブズのようだ。
「宮殿」について、まだイメージの共有ができてない先駆者だから、あれもこれもと説明する必要があったんじゃないだろうか。
そして、同じようなことは風土記にも言える。
そもそも風土記には、カミムスビがなぜ、オオクニヌシの宮殿を造ろうと思ったのかの理由が書かれていない。
理由を知ろうと思えば、日本書紀を参照するしかない・・・。
ということで、ぼくはオオクニヌシの「宮殿」の件からは、日本書紀→風土記→古事記の順で、「現在の形」に成立していったように思えるんだが、我ながらあんまり説得力のある説明ではないか。
《追記》カミムスビはアマテラスか
大和岩雄さんの『天照大神論』(2020年)に面白いことが書いてあった。
記紀における「皇祖神」といえば、タカミムスビとアマテラスだが、平安時代の祝詞や寿詞で高天原の皇祖といえば「カムロキ・カムロミ」で例外はなかった。
これはカムロキ・カムロミの伝承が、文字なき時代に口から発する言葉の一部として定着してしまっていて、改変しがたいものだったと考えられる。
以下はその一例。
六月晦大祓
高天原に神留り坐す皇親神漏岐・神漏美の命以て、八百万神等を神集へに集へ賜ひ、・・・
鎮火祭
高天原に神留り坐す皇親神漏義・神漏美の命持ちて、皇御孫命は豊葦原乃水穂国を安国と平けく知食せと、・・・
これが、遅くとも716年には成立していた『出雲国造神賀詞』になると、皇祖はタカミムスビとカミムスビに代わっている。
高天の神王、高御魂・神魂命の、皇御孫命尓天下大八嶋國乎事避奉之時、・・・
カムロキ・カムロミが、タカミムスビ・カミムスビに代わったことを明瞭に記しているのが、祭祀一族の忌部氏が朝廷に提出した『古語拾遺』(807年)。
文字になる前の、生きた神話にこだわった斎部広成は、造化三神をこう書いている。
又、天地割判くる初に、天の中に生れます神、名は天御中主神と曰す。
次に、高皇産霊神。〔古語に、多賀美武須比といふ。是、皇親神留伎命なり。〕
次に、神産霊神。〔是、皇親神留弥命なり。此の神の子天児屋命は、中臣朝臣が祖なり。〕
ところが、記紀に残された神話では、皇祖タカミムスビと共に現れるのはアマテラスであって、カミムスビではない。
それで、本文(正伝)にカミムスビが全く出てこない「日本書紀」は措くとして、オオゲツヒメやオオナムジ、スクナヒコナのエピソードで、カミムスビが実体を持って描かれる「古事記」をあらためて見直してみれば、カミムスビとアマテラスが同時に登場する場面が皆無であることがわかる。
カミムスビの記事が載る所では、アマテラスの記事は載らず、カミムスビの記事が消えるとアマテラスが登場する。
というわけで、大和さんの結論は「女神カミムスビと女神アマテラスは同一神である」。
なるほど古事記では、カミムスビが大穴牟遅神(大国主神)を蘇生させたりしているが、そこをアマテラスに入れ替えると「国譲り」に矛盾が生じるので、そういうときは本来のカミムスビのまま現れると・・・そういう感じだろうか。
それならカミムスビが大国主神を見捨てた理由も分かる。その時のカミムスビは、アマテラスだったというわけか。
「その④風土記のスサノオ一家」につづく
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