「下海上国」の香取神宮と「印波国」のニギハヤヒ

下海上国の香取神宮

香取神宮の「津宮浜鳥居」

利根川のほとりに立つ、香取神宮の「津宮浜(つのみやはま)鳥居」。


香取神宮の祭神「フツヌシ(経津主神)」が上陸した地点であり、往昔の表参道口だったと公式サイトには書いてある。


江戸時代の前半まで、鳥居の前には「香取の海」という巨大な内海が広がっていて、約10キロ先の対岸には、香取神宮とはペアで語られることの多い「鹿島神宮」が鎮座していた。

香取神宮の楼門

一説によると4世紀のはじめ頃、今の千葉県の北半分には「大海上(おおうなかみ)」と呼べるような大きな勢力(国?)があったのだという。

(『古代東国の風景』原島礼二/1993年)


それが次第に分割されて、5世紀初頭の応神天皇の時代には、のちの「下総国」を構成する「印波国」と「下海上国」に国造がおかれたと、『先代旧事本紀』に書かれている。


香取神宮は、この時点では「下海上国」に鎮座していたことになるんだろうが、大化5年(649年)に対岸の鹿島神宮に神郡「香島郡」が設置されると、同じように神郡「香取郡」が設置されて、一種の"独立国"になったと考えられているのだとか。

「日本の神々 神社と聖地 11 関東」

もちろん、両神宮の神郡設置の背景に、のちに両神宮を自家の「氏神」にしていった中臣(藤原)氏の影響力をみる識者は多い。


『日本の神々11関東』(1985年)によれば、もともとは常陸の鹿島神宮は「多氏」が、下総の香取神宮は「物部氏」が、東国の開発(侵略?)の拠点に祖神を祭った神社だったものが、760年代に大和国の「春日」に鹿島神・香取神を遷した頃には、スッカリ藤原氏の氏神に変貌していたんだそうだ。


実際、721年に成立した「常陸国風土記」の段階では、鹿島の神は「香島天之大神」で、香取の神は「普都大神」と、まだ日本書紀のタケミカヅチやフツヌシとは完全にリンクしてはいなかったようだ。


【関連記事】常陸のニギハヤヒと茨城県の神社

延喜式神名帳と日本書紀の「神宮」

石上神宮

(石上神宮)

そういえばネットを見ていたら、平安中期に成立した「延喜式神名帳」に「神宮」として記載されるのが伊勢・鹿島・香取の三社だけという理由から、この三社こそ皇室がもっとも重要視した神社だ・・・というような説を見かけたが、それはチト違うような気がする。


というのも、延喜式より200年も前に成立した正史「日本書紀」では、「神宮」は崇神紀の「三輪の神宮」と「出雲大神の宮」、垂仁紀の「石上神宮」、そして景行紀にはじまる「伊勢神宮」が載るだけで、鹿島や香取は出てこないのだ。


だが『香取私記』なる本によると、「香取神社」が神宮の称号を得たのは聖武天皇の732年というんだから、それは当たり前といえば当たり前の話。

(『房総の古社』1975年)


おそらく延喜式の三神宮は、皇室というより藤原(中臣)氏が重要視した神社だったんだろう。

伊勢神宮についても、中臣氏は幕末まで「祭主」という最高位を独占していたと聞いている。

印波国の三大神社

成田市の麻賀多神社

(成田市の麻賀多神社)

応神天皇が下海上国に国造をおいたころ、同じように新設されたのが「印波国」。


その初代国造は「伊都許利(イツコリ)命」といって、神武天皇の皇子でありながら皇位を弟に譲って神祇の奉斎に生きたという「神八井耳命」の八世孫にあたる人物。


神八井耳命の子孫というと、『日本の神々』が中臣氏以前に鹿島神を祀っていた氏族だという「多氏」が有名だが、イツコリ命との関係は不明のようだ。

伝伊都許利命墳墓

(伝・伊都許利命墳墓)

成田市の「麻賀多神社」は、イツコリ命が創始したと伝わる神社だが、その奥宮にはイツコリ命の墳墓と伝わる古墳があった。


ただ、35mx36mx5mと「方墳」にしては立派なサイズのこの古墳、残念ながら築造年代は7世紀後半以降ということで、5世紀を生きたイツコリ命とは年代が合っていない。


ところで「麻賀多」の社名は「勾玉(麻賀多真)」が由来なんだそうだが、その珍しい名前の神社が印波国には18社もあり、その分布はなぜか印旛沼の東と南だけに限定されるのだという。


じゃあ印旛沼の西にはどんな神社あるのかというと、福岡県に本社のある「宗像神社」だった。

印西市山田の宗像神社

(印西市山田の宗像神社)

印旛沼の西に分布する宗像神社の数は13社で、同一郡内にこれほど多くの宗像神社が集中しているのは本社のある福岡県はもとより、全国的にも類を見ない・・・と『日本の神々』には書いてある。


とはいえ、中部地方以東で「式内社」の宗像神社は下野国(栃木県)に一社あるだけなので、印旛沼の宗像神社は延喜式の成立した平安中期以降に、九州から宗像族の一団が入植したことを示すこと以上の意味はないそうだ。

関東のニギハヤヒ神社

印西市萩原の鳥見神社

(印西市萩原の鳥見神社)

残る印旛沼北西部に分布するのは「鳥見(とりみ)神社」の18社。


祭神は、物部氏の祖神「ニギハヤヒ」とその妻「ミカシキヤヒメ」、二人の間の子「ウマシマジ」の三柱だ。


もちろん宗像神社と同様に、九州や畿内に出自のある物部氏の一部が、ある時期この一帯にまとめて入植したことを表しているんだろう。


ただ、これもネットの話だが、現在、千葉や茨城にニギハヤヒを祀る神社が25社あることを根拠にして、ニギハヤヒの「祖地」を関東だというような説を見かけたんだが、それって多分、鳥見神社の18社を含めちゃってるんじゃないだろうか。


ぼくが以前調べたときは、関東でニギハヤヒを祀っている「式内社」は、茨城県の「稲村神社」と埼玉県の「北野天神社の二社だけだった記憶がある。


印旛沼の宗像神社がそうであるように、今現在の神社の数が多いからといって、そこが祭神や奉斎氏族の祖地だとは限らない。

むしろ後から持ちこまれた神だからこそ、入植した部落の数だけ同じ神社がつくられたケースは、けっこう多いんじゃないだろうか。

大戸神社と息栖神社の祭神

大戸神社

(大戸神社)

香取市大戸に鎮座する、香取神宮の摂社「大戸神社」。


現在の祭神は「天手力男神」だが『日本の神々』によれば、それは「大戸」の「戸」に付会したもので、『日本地理志料』や『下総国旧事考』などでは「天鳥船(あめのとりふね)命」が有力視されているのだという。


ところが不思議なことに、この「天鳥船命」は香取神宮の祭神・フツヌシとは縁がなく、古事記の「国譲り」の段で、アマテラスの命令で鹿島神宮の祭神・タケミカヅチとともに出雲に派遣された神だったりするのだった。

息栖神社

(息栖神社)

一方、大戸神社と香取神宮を結んだラインを延長した地点に鎮座するのが、かつては鹿島神宮の摂社だったという茨城県神栖市の「息栖(いきす)神社」なんだが、こちらの祭神は逆にフツヌシに関係が深い「久那戸神(岐神)」。


クナド神が活躍するのも「国譲り」の段で、ただしこちらは日本書紀。


幽界への隠居を決意した大己貴神に推挙されたクナド神は、フツヌシの先導役となって葦原中つ国の平定に協力したと、神代の一書に書いてある。


つまり、鹿島と香取は記紀ではコンビだった神(摂社)を交換してることになるわけで、いろいろ考えさせられて面白い。

関東の前方後円墳と前方後方墳

三ノ分目大塚山古墳

(三ノ分目大塚山古墳)

香取神宮から東に5キロの場所にある「三ノ分目(さんのわけめ)大塚山古墳」。


5世紀半ばに築造された墳丘長123mの前方後円墳で、その頃の畿内を基準にすれば"中の下"といったクラスだが、千葉県では最大級の古墳のひとつ。

時期的に見れば、初代か二代目の「下海上国造」のお墓といったところだろうか。


そういえばネットで見かけるのが、関東には前方後円墳より古い形である、前方後「方」墳が多いという説。

これも事実誤認だ。

姫塚古墳

(姫塚古墳)

前方後「方」墳が前方後「円」墳に卓越したのは、関東では栃木県と埼玉県だけで、それ以外の茨城県・千葉県・群馬県・東京都・神奈川県では「円」の方が主流だった。


茨城県については、もっとも古い3世紀半ばの「姫塚古墳」(大洗町)の段階では29mの「方」だったが、それ以降に造営された鹿嶋市の「宮中野古墳群」や潮来市の「大生古墳群」は「円」ばかり。


千葉県は、一番古い3世紀半ばの市原市「神門5号墳」からして、前方後「円」墳からのスタートだった。


つまりは、関東に前方後「方」墳が多いというのはただのイメージで、考古学の知見に基づく説明ではなかったようだ。

神門5号墳

(神門5号墳)

ちなみに全部合わせて5000基前後もつくられたという前方後円墳だが、最も多いのが千葉県の720基というのはよく知られた話。


ただ関東では、畿内で前方後円墳の築造が終焉した6世紀後半以降も、引き続き434基もの前方後円墳がつくられたということで、畿内以西とはまた違った価値観に突き動かされていたようだという話だ。


鹿島神宮・香取神宮はいつ創建されたか」につづく