関裕二『聖徳太子と物部氏の正体』を読んで
聖徳太子と四天王寺
写真は2024年春に参詣した、大阪市天王寺区の「四天王寺」。
日本書紀によれば、西暦587年、蘇我馬子率いる物部守屋討伐軍に参加した14歳の聖徳太子は、三度も退却させられる大苦戦のなか、霊木を削って四天王の像を作ると、勝利の暁には寺塔を建立すると誓願を発したという。
太子の誓願のおかげか、物部守屋は射殺され、593年9月から四天王寺の造営は始まったと日本書紀にはあるが、歴史学者の加藤謙吉さんによれば、創建当時の本尊が唐から請来された623年頃が、実際に四天王寺が創建された年代だろうということだ。
それは聖徳太子が薨去した、翌年のことになる。
こちらは四天王寺の境内にあった「熊野権現遥拝石」で、継体天皇の時代に流行した「阿蘇ピンク石」がなぜか埋められているのだという。
なんでも阿蘇ピンク石は、推古天皇の初陵といわれる「植山古墳」(橿原市)でも使われているそうで、その謎の解明に一冊を費やした『大王家の柩』(石橋旺爾/2007年)なども読んでみたんだが、採用された理由も意図も、全くの謎のようらしい(本自体は面白いです)。
んでこちらが、四天王寺から歩いて10分に鎮座する「大江神社」で、四天王寺を守護する「四天王寺七宮」のひとつ。むろん、聖徳太子の創建と伝えられる。
大江神社以外にも3社が現存するというので巡詣する予定だったが、5月の大阪の日差しは関東人には酷過ぎて、早々に地下鉄に逃げ込んだのだった。
ところで、日本書紀が聖徳太子の「政敵」として描く物部守屋を、実は蘇我馬子が推進する律令国家建設への最大の理解者で、協力者だった———とする本を読んだ。
歴史作家、関裕二さんの『新史論/書き替えられた古代史 3 聖徳太子と物部氏の正体』(2014年)だ。
関さんによれば、聖徳太子は「架空の存在」で、その虚像を使って日本書紀(藤原氏)は「蘇我氏の正体を抹殺」し、「物部氏の活躍を隠匿」したのだという。
というと、えー!日本書紀は物部氏の祖・ニギハヤヒの「国譲り」も、武諸隅と物部十千根の「出雲制圧」も、包み隠さず載せているじゃないかーという声も(どこからか)聞こえてきそうだが、そういう昔話じゃなくて、隠匿されたのは6世紀後半の「物部守屋」の活躍の件だ。
斑鳩は物部氏の土地だった?
(藤ノ木古墳 写真AC)
関さんによれば、日本書紀が「政敵」同士として描く物部守屋と聖徳太子のあいだには、深い関係があったそうだ。
それが太子の本拠地「斑鳩」の土地で、いま法隆寺のある場所は「あまり知られていないが」「もともと物部氏の土地」だったのだという。
関さんによれば、藤ノ木古墳の被葬者も「物部系」だし、創建時の法隆寺(若草伽藍)は物部守屋を鎮魂するために建てられた可能性もあるのだとか。
——————ただ、斑鳩が誰の土地だったかには諸説あって、手持ちの本だと、太子がもっとも愛したお妃の実家「膳(かしわで)氏」という説もあれば、斑鳩は平群郡に属しているので「平群氏(&関係の深い額田部氏)」という説もあれば、もちろん「物部氏本宗滅亡後の空白地帯」や「大和川を挟んで敏達系皇族と対峙した」なんて説もあるようだ。
また、藤ノ木古墳の被葬者としては、その発掘を担当された前園実知雄さんが提唱する「穴穂部皇子」(と宅部皇子)が有名で、その説をとれば、蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害した翌月には物部守屋も滅亡しているので、斑鳩が旧物部領だとはチト考えにくい。
(仮に斑鳩が、蘇我氏が物部氏から奪った土地だとすると、そこに物部守屋と組んだ皇子は埋葬しにくいのではないかと)
(渋川廃寺跡 八尾市観光データベース)
それと、物部守屋が仏教信仰を持っていた根拠とされる八尾市の「渋川廃寺」は、出土した瓦から守屋が討伐された後の建立と考えられる点から、これぞ守屋を鎮魂するための寺院だったという説が有力なんだそうだ。
(『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年)
先代旧事本紀と蘇我氏
さて、日本書紀を藤原氏の作文だとみる関さんは、当然、それ以外の論拠を必要とするわけで、そのひとつが「物部氏の歴史書」だという『先代旧事本紀』だ。
関さんは、『先代旧事本紀』が蘇我氏の悪口をいうどころか、入鹿の母が物部氏であることを「なぜか誇らしげに記録している」のは「不審」だという。
本当に先祖の仇なら、もっと恨み言やらを述べてもいいんじゃないかと。
なので日本書紀は「物部氏と蘇我氏の本当の関係」を隠蔽している可能性がある・・・。
——————ただ、この『先代旧事本紀』、古代史ファンならご存知のように、いつ、どこの誰が書いたか全くわからない代物で、一般的には「偽書」とされる厄介者だ。
実際、その中でも真実か?と言われる物部氏の系譜からして問題があって、巻5「天孫本紀」には物部守屋の子だという「物部雄君(おきみ)」なる人物が、天武朝で物部氏の「氏上」となったとあるんだが、587年に没した守屋の子が天武朝に仕えたとすると、その間は86年以上・・・。
もちろん日本書紀がデタラメで、守屋は587年に死んでないとなれば話は別だが、関さんも守屋の死因までは否定していないようだ。
また、先代旧事本紀は平安初期の成立だと考えられているそうだが、その当時は藤原氏の天下だったわけで、藤原不比等の妻となって武智麻呂、房前、宇合の三男をうんだ「蘇我娼子(しょうし)」の実家の悪口は、書きにくかった可能性もあるのかも知れない(蘇我娼子は馬子のひ孫だ)。
隋使・裴世清と聖徳太子
(明日香村 写真AC)
関さんが、聖徳太子には「実像がどこにもなかった」ことを端的に表しているというのが、遣隋使にまつわる記事だという。
日本書紀には608年のこととして、国書を携えた隋からの使者・裴世清を朝廷に迎えたという記事が載るが「不可解なこと」に、そこには推古天皇も聖徳太子も登場しない。
一方、相手側の『隋書』倭国伝には、裴世清が「倭国王」と会見し、大いに語りあったことが記されていて、関さんは「ならば聖徳太子のモデルとなった何者かが大王であったこと」を日本書紀が隠蔽しているのではないか、と言われるわけだ。
——————ただ、歴史学者の吉村武彦氏は、『隋書』の他の箇所には「倭王」には「妻」と「太子」がいたとあるが、推古天皇に「妻」はいないのだから、裴世清が会見したのは「太子」すなわち「おそらく厩戸王子であろう」と書かれている(妻は太子の妻)。
となると隋書はむしろ、聖徳太子の実在を証明しているような気もするが・・・はてさて。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』とは
(飛鳥寺)
『先代旧事本紀』につづいて、関さんが論拠として取り上げるのが『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』なる文書。
関さんによれば「蘇我氏の元興寺(※旧飛鳥寺)の正式文書で奈良時代末頃に完成したと思われている」とのことだ。
——————ただ、この『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』、どうやら専門家の方々の評判は、あまり芳しくないようだ。
仏教史学者の吉田一彦氏によれば、それは政治的プロパガンダを含む「偽文書」なのだという。
そもそも、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』については、早くから成立や内容の信憑性に疑問が投げかけられ、元慶六(882)年までに付加された部分が少なくないと指摘されていた(水野1992)。
さらに、近年の厳密な分析の結果、「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は9世紀後半の豊浦寺縁起をもとにして、興福寺が元興寺への支配を強める平安時代末に、元興寺の寺勢防衛、挽回のために偽作されたもの」、すなわち11世紀末以降、12世紀中頃以前に成立した偽文書であると推断されている(吉田一彦2012)。
これらによれば、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の信憑性は著しく低いことになる。
(『蘇我氏と馬飼集団の謎』平林章仁/2017年)
なお、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は史料としては「訳あり」になるが、関さんが「太子の母は鬼の一族だった」という主張の論拠にされている『上宮聖徳法王帝説』の方は重要な史料として、専門家の信頼を集めているそうだ(東野治之)。
聖徳太子の母は物部氏か
関さんによれば、蘇我氏と物部氏が対立・拮抗していた時代に「なぜ物部系の女人はひとりも入内しなかったのか」は謎であり、「不自然」だという。
そこで関さんが注目したのが、蘇我稲目の娘で、欽明天皇に嫁いだ二人のうち「堅塩媛(きたしひめ)」の子たちが「親・蘇我」なのに対し、「小姉君(おあねのきみ)」の子が「反・蘇我」という傾向があること。
具体的には、小姉君の「反蘇我」の子としては、物部守屋と組んで皇位を狙って馬子に殺された「穴穂部皇子」、即位したものの馬子に殺された「崇峻天皇(泊瀬部皇子)」がいて、ここに聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」も加わる。
そして関さんによれば「穴穂」は第20代安康天皇の「石上穴穂宮」以来、石上神宮を祀る物部氏と強い関わりがあるんだから「小姉君は実際には物部氏の出ではなかったか」という推理になり、「聖徳太子が物部母を持っていた」ことは「古代史の定説を覆す大事件」になるのだという。
(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)
——————ただ、上の図45は「倭の五王」の時代の皇室系譜だが、葛城氏に対抗して娘を入内させていた豪族「和邇(わに)氏」の政治的地位が高かったかといえば、そうでもなく、一方で雄略朝では物部目、武烈朝では物部麁鹿火が「大連」に就任している物部氏の娘たちは、この頃も入内していない。
この点について歴史学者の水谷千秋さんは、物部氏や大伴氏といった「連姓」が皇室と姻戚関係を結んだ記録は、ほとんどないと書かれている。
たしかに物部氏の入内は「欠史八代」まで遡ってしまうようだ。
蘇我氏は「親・新羅」か
(仏塔)
関さんが「物部氏と蘇我氏は婚姻関係を結んで協力関係を構築していた」といわれる根拠の一つが、593年に法興寺(飛鳥寺)の塔の心礎のなかに「仏の舎利」を安置したとき、『扶桑略記』によれば、蘇我馬子らは「百済服」を着て参列したという点。
関さんはこれは「親・新羅」である蘇我氏が、「親・百済」の物部氏に「歩み寄ったことの披露」だろうという。
——————ただ、馬子が百済服を着た理由は、加藤謙吉さんによれば「百済仏教の継承」を内外に打ち出した姿で、蘇我氏の外交は「親百済・反新羅」に基づくというし、水谷千秋さんももう少し広い視点から「日本書紀を通読しても、国内の或る勢力が一貫して親百済的で、別の勢力が親唐・新羅の立場にあったという証跡は見出しにくい」と書かれている。
(『謎の豪族 蘇我氏』2006年)
聖徳太子と蘇我入鹿
(写真AC)
関さんによれば、蘇我馬子と物部守屋は婚姻関係を結んで、律令制度の導入を目指したということだが、その最大の障害となるのは、いうまでもなく、全国に広く分布している当の物部氏の一族だ。
彼らに土地や民を放棄させないことには、律令制度の根幹となる「公地公民」が実現しない。
それで馬子と守屋が考え尽くして辿り着いた方法が、蘇我と物部の両方のトップの血を受け継いだ「御子に全権を委ねて改革事業の先頭を走ってもらう」ことだったと、関さんはいう。
この「御子」こそが、関さんが母方に物部の血を持つという「聖徳太子」ということになるが、その人はあくまで日本書紀が生み出した「虚像」。
その実体は、馬子の孫「蘇我入鹿」なのだと関さんはいわれる。
関さんはそれを、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に載る系図を重ね合わせることから導き出したのだそうだが、「偽書」に基づく議論は話がややこしくなるので、割愛とする。
「聖徳太子の密約」とは
(善光寺)
そして、関さんの結論はこうだ。
そして蘇我氏は、物部氏を取り込むために、ある秘策を用いたのではないかと、筆者は睨んでいる。
「聖徳太子(正体は蘇我入鹿)」は「蘇我と物部の同盟関係の証」であり、さらに「独裁的な権力を握る天皇は、物部系(母が物部氏)から選ぶ」という、策を弄したのではあるまいか。
つまり、七世紀前半の天皇は、物部系だったのではあるまいか……。
筆者はこれを、「聖徳太子の密約」と呼びたい。
聖徳太子は蘇我系の皇族(母が蘇我氏)とこれまで信じられてきた。
しかし実際には「物部腹の御子」であり、この時代は、「聖徳太子」に象徴される「物部系の実力者や大王が実権を握った時代」だったのではないかと疑っている。
ただし、ここがややこしいところだが、この時代の王家は誰だったかと言うと、それは「蘇我氏」ではないかと、筆者は思っている。(以下略)
(『新史論/書き換えられた古代史3 聖徳太子と物部氏の正体』関裕二/2014年)
ちなみに日本書紀によると、「七世紀前半の天皇」は三帝で、まず推古天皇の母は蘇我馬子の娘(堅塩媛)で、舒明天皇の母は敏達天皇の皇女、皇極天皇の母は欽明天皇の孫、ということで、いずれも「物部系」ではないと思われるが、関さんによれば、舒明天皇は「百済宮」「百済大寺」を造営したので百済と結びつきの強い「親・物部派」で、実は物部氏出身の天皇だと「疑われる」のだという。
(善光寺)
皇極天皇はというと、長野県の「善光寺」の伝承の中で「地獄に落ちた」と伝わることから、古代信濃に強い影響力をもっていた物部氏と「強く結ばれた女人だった」と「察しがつく」のだという。
そして舒明・皇極のご夫婦は、「聖徳太子の密約」に基づいて天皇に立てられて、律令整備に邁進しようとしたが、予期せぬ不幸に見舞われてしまった。
こともあろうに息子である中大兄皇子(天智天皇)に、蘇我氏と物部氏の統合の象徴である、蘇我入鹿を殺されてしまったのだ。
関さんによると、中大兄皇子は物部氏内部の「反密約」勢力と手を組んで、「密約」を反故にする行動に出たのだという。
そのせいで律令制度の完成は遅れてしまうわけだが、それでも「今日の日本の基礎を築いたのは」物部守屋が私利私欲を捨てて、蘇我馬子に土地や資産を投げ出したことに始まることは「確かなことなのだ」・・・として、関さんの議論はいったん終わる。
(近江神宮 写真AC)
・・・うーむ、なんとも難解な議論で、ぼくには古代史の謎がますます深まってしまったが、天下の小学館がシリーズで出してる通史の一冊なわけで、分かる人にはわかる説明なんだろう。
つまりは、聖徳太子とは蘇我入鹿の功績を隠すための虚像で、それを考案したのが藤原不比等・・・ってことになるんだろうか?
でも太子の功績とされる冠位12階とか17条憲法は馬子の時代のもので、入鹿が政界にデビューした642年だと聖徳太子が薨去してから20年も経っていて・・・いや待て待て、入鹿の父・蝦夷も関さんがいうには「ダミー」なんだから、その分を繰り上げたとして・・・。
って、んー難しいな、これ。
正直、ぼくにはお手上げなんだが、ここまでの関さんの説明がすんなりと腑に落ちた人のために、本の前半部分で展開されている古墳時代の通史から、その要点と思われるものを列挙してみると、こんなかんじか。