(「走水神社」2022冬参詣)
上の写真は、日本武尊と弟橘媛を祀る、神奈川県横須賀市の「走水神社」(2022冬参詣)。
オトタチバナの父は、穗積氏(物部氏)の忍山宿禰という人。伊勢国の式内社「忍山神社」には、そこがヤマトタケルとオトタチバナが初めて出会った場所だという伝承がある。
物部氏は軍事氏族として有名だが、「十種神宝(とくさのかんだから)」に象徴されるように、「呪術」も得意にした氏族とも聞く。
古事記によれば、オトタチバナが海中に没した7日後に、ヒメの「櫛(くし)」だけが海辺に流れついて、タケルに拾われたという。櫛は、イザナギ vs 黄泉醜女や、白雪姫 vs ママ母でも使われたように、呪具として機能する。
もしかしたらオトタチバナは初めから、タケルのピンチには身を投げ出して、物部の呪法でタケルを守る使命を負っていたのかも知れない。
(走水神社から東京湾の眺め)
走水神社の境内からは、東京湾をはさんで対岸の千葉県富津市が見えた(火力発電所か)。
対岸までは10キロ足らずだが、海流を横切るので真っ直ぐに進めない海の難所で、漕ぎ手12人のカッターボートで5~6時間、古代の舟なら10時間はかかると、実際に防衛大学時代にチャレンジ経験のある海自の教官の談話を読んだ。
潮の干満による海流が湾内を行き来するので、かなりの難所ということだ。ただ当時の東京23区はほとんど湿地帯だったので、この海路が「東海道」として使われたそうだ。
(『神話のなかのヒメたち』産経新聞取材班/2018年)
(須恵国造が奉斎した「八雲神社」2022春参詣)
ヤマトタケルが東征した当時、上陸した上総の君津市、富津市あたりにあった国が「須恵(すえ)」で、国造本紀によれば「成務朝に、茨城国造の祖・建許侶命の子の大布日意弥命を国造に定められた」という。
君津市の「八雲神社」は、その須恵国造がスサノオを祀ったことに始まると、神社の御由緒に書いてあった。
また、須恵国の北には「馬来田(まくた)」という国があって、国造本紀によれば、こちらもやはりタケコロの子が国造に就任したという。
(成務朝の御世に、茨城国造の祖・建許侶命の子の深河意弥命を国造に定められた)
(JR「馬来田駅」2022年春見物)
このタケコロの名は記紀には出てこない。
出てくるのは、まず721年成立の『常陸国風土記』で、いわくタケコロは茨城国造の始祖で、応神天皇がうまれるまで神功皇后の朝廷に仕えていたという。タケコロには子どもが8人いて、次男は茨城郡の「湯坐連(ゆえのむらじ)」らの始祖だという。
それと815年成立の『新撰姓氏録』には、3氏の始祖として名前が載っている。
○大和国神別「三枝部連」(天津彦根命十四世孫達已呂命之後也)
○大和国神別「奄智造」 (同神十四世孫建凝命之後也)
○和泉国神別「高市県主」(天津彦根命十二世孫建許呂命之後也)
子孫が大和や和泉にいるんだから、タケコロは元から東国にいたわけじゃなく、畿内から移住していった人物なんだろう。
じゃあそれは、いつのことだろう。
(馬来田国造の奥津城「白山神社古墳」)
常陸国風土記や国造本紀などを綜合してみると、千葉・茨城に最初に進出したのは「多氏」の人たちかと思われる。
風土記には、崇神天皇の時代に「建借間命」が派遣されて、行方郡(潮来市、行方市)の蝦夷と戦ったとある。
国造本紀によれば、タケカシマは「伊余国造」「印波国造」と同族で、その祖は「多氏」の祖である「神八井耳命(神武天皇の皇子)」にさかのぼる。
同じく「多氏の同族」である「黒坂命」は、タケカシマのあとを継いで蝦夷と戦ったが、その根拠地はタケカシマが戦場にした霞ヶ浦(香取海)の界隈だった。
黒坂命の時代の戦場は、福島県南部の浜通りに移っていたようだ。
そして黒坂命は見事に蝦夷を打ち破り、茨城県の最北部「多珂郡」まで凱旋してきたところで、気の毒にも急死してしまったという。
(建借間命が戦った安婆の島の「大杉神社」)
多氏につづいて東国経営に動員されたのが出雲族で、常陸国風土記によるとヤマトタケルは蝦夷平定の帰路に、常陸の「新治(にいはり)」で「ヒナラス命」に井戸を掘らせたとあるが、ヒナラスの父は出雲国造家の祖神「アメノホヒ(天穂日命)」の8世孫・ミツロギ命。
ミツロギの「孫」は、千葉の「安房国造」や茨城の「高(多珂)国造」に就任している。
また、初代の武蔵国造「エタモヒ命」も出雲族で、『高橋氏文』によると、エタモヒは景行天皇の上総行幸では遠路はるばる駆けつけて、天皇に食事を献上したという。
長浜浩明さんの計算だと、景行天皇の行幸は西暦317年頃のことになるので、エタモヒたちはそれ以前の、3世紀後葉から4世紀初頭には、関東に移住していたとぼくは思う。
(タケコロの子を祀る「石背国造神社」2026春参詣)
では、成務天皇(在位320−350年頃)の時代に、「師長(神奈川西部)」「須恵」「馬来田」「石背(須賀川)」に子どもたちが、そして「石城(いわき)」に本人が、国造として着任したというタケコロはいつ、東国に移住してきたかといえば、ぼくはそれを出雲族より後の、ヤマトタケルの東征の時代だと思っている。
つーか、東征の主力軍だったんじゃないだろうか。長浜さんの計算だと、西暦310年頃のことだ。
んで、ぼくがそう思う理由は、タケコロの年齢にある。
(タケコロを祀る「磐城国造神社」2026春参詣)
常陸国風土記によれば、タケコロは応神天皇が誕生するまで、神功皇后の朝廷に仕えたという。応神天皇は、長浜さんの計算だと389年頃に35歳で即位しているので、その生誕は354年頃のことになる。
仮にこの時、タケコロが70歳で引退したとすると、ヤマトタケルに従軍した310年頃には26歳。引退が60歳なら、東征時は36歳。
タケコロの「子」のなかには、応神天皇の時代に「道奥(みちのく)」の国造に指名された人物が二人もいるので、東征の時点であんまり老けていると、その二人の出生が生物学的に厳しくなる。
なのでぼくは、タケコロはエタモヒなんかよりずっと後に、ずっと若い年齢でヤマトタケルに従軍して、東国に屯田したと思っているわけ。
(いわき市の「玉山古墳」2024夏見物)
風土記のいう「神功皇后に仕えた」という意味が、奈良の皇居(若桜宮)で身辺に仕えたのか、それとも福島県で代官として仕えたのかが今イチ定かでないが、いわき市にはタケコロのお墓にふさわしい「玉山古墳」がある。
4世紀中葉に築造された112mの前方後円墳で、東北地方では歴代4位の規模だそうだ。
ぼくらも実際に見物に行ったものの、お寺の裏山という扱いで何がなんだかよくわからず、道路から写真だけ撮って次に向かったのだった。
【関連記事】東北の国造たち。鹽竈神社の謎と雷神山古墳の被葬者
(出典『国造』篠川賢/2021年より抜粋)
それにしても、畿内に出自のあるタケコロの一族(一家?)がヤマトタケルに従軍して、はるかな東国に移住していった、あるいは屯田させられた、その理由は何なんだろう。
実は国造本紀には気になることが書いてあって、常陸国風土記ではタケコロを「茨城国造の祖」だというのに対し、国造本紀は茨城国造を「応神朝の御世に、天津彦根命の孫の筑紫刀祢を国造に定められた」と書いている点。
もちろん、アマテラスとスサノオの「うけい」から成り出た三番目の男神であるアマツヒコネの「孫」の世代が、人間界の国造なんて有りえないので、これは「タケコロの孫」の間違いだろう。
でもこんな誤記が起こるのは、古代の人にとって、タケコロには祖神であるアマツヒコネとイコール記号で結んでいいような、似たような属性があるとイメージされていたからじゃないか———というのが、ぼくが受けた印象。
んじゃ、そのアマツヒコネの属性って何なのさ、というと、子孫に「鍛冶」や「製鉄」に関わる神や人間がいること・・・だろうか。
(金山彦をまつる「南宮大社」2021春参詣)
古代の「鉄」をライフワークにされた民俗学者の谷川健一さんは、1975年11月8日に、美濃国一宮「南宮大社」で執り行われた、主祭神「金山彦命」を祀る「ふいご祭り」を見学されたそうだ。
そのとき、谷川さんが宮司の宇都宮氏から聞いた話が、こう。
宇都宮氏の話でとくに私の注意をひいたのは、このあたりで伊吹おろしと呼ばれる冬期の西北風の話であった。
風は金を生ずるというが、この伊吹おろしは寒いというよりは痛いくらいに強烈なので、昔はたたらを風の方向に向けておくと足でつよく踏まないでも、風が炉に入って炭をおこすことができたという。
(『青銅の神の足跡』谷川健一/1979年)
つまり南宮大社のあたりでは、「伊吹山の猛烈な風を利用する仕事」として「金属の精錬」が行われていたので、鉱物の神である「金山彦命」が祀られていたということだ。
すると同じように11月8日に「ふいご祭り」を行う古社が三重県にあって、それが伊勢国では二社しかない名神大社のひとつ、桑名市の「多度大社」だ。
多度大社も、養老山地から吹き下ろす「鈴鹿おろし(養老おろし)」という強い風で知られた場所に鎮座していて、そこでは鍛冶や製鉄の神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」が祀られている。
この天目一箇神の父神が、タケコロの一族の祖神でもある「アマツヒコネ」だ。
(天津彦根命を祀る「多度大社」2021春参詣)
谷川さんは、多度大社の別宮「一目連神社」について、こんなことを書かれている。
それは、扉もなく藤がかかっているだけのいたって小さな社であるが、この神がときに外出するさいは大雨が降り雷電がしきりである。
土地の人たちは多度権現が外出されると言い合って、門に出、窓から見ると、 一すじの黒雲が屋根すれすれに走る。
このあたりの人は、この神が外出すると風波はおだやかで海上も静かであるとよろこぶが、他国では田畑が大いに荒れ、何もかもかき消すようになってしまうときらう。
ふつう一目連というが、実際は一目竜のことだろう、といっている。
(中略)
つよい風が鍛冶の精錬に必要不可欠だったのであり、また一目連の飛行のさいに雷鳴のような音がひびき光り物が渡るのも、鍛冶場を連想させずにはすまない。
(『青銅の神の足跡』谷川健一/1979年)
(天目一箇命を祀る「多度大社別宮・一目連神社」)
また、一般的に天目一箇神をビジュアル的にイメージするとき、その姿が片目・片足で描かれることの理由はこう。
山の傾斜面などを利用した野だたらで銅や鉄を吹いていた時代、そうした仕事にたずさわる人たちは、炎のために目を傷つけ一眼となることが多かったから、目一つの神と称せられた。鍛冶氏族の特徴はその目にあった。
このようにして天目一箇神の名前が『記紀』に登場する。
また、足で踏むふいご、つまり、たたらを踏むことで、足の疾患もとうぜん起こったにちがいない。
(『青銅の神の足跡』谷川健一/1979年)
(天之御影神を祀る「御上神社」2022夏参詣)
ところで近江には、アマツヒコネの「嫡流」であることを主張する人々がいて、それが滋賀県野洲市の名神大社「御上(みかみ)神社」の祭祀氏族の「三上氏」だ。
この三上氏が祀る「天之御影神」はアマツヒコネの御子神で、社伝によれば天目一箇神の別名だそうだ。アマツヒコネの嫡流氏族は、やはり鍛冶・製鉄の神を祀っていた。
また、アマツヒコネの後裔には、大和の額田部に住んで金属の鋳造を専業とした「額田部湯坐連(ゆえのむらじ)」を同族とする多数の氏族が存在するが、この人たちが祀る「明立天御影命」も天目一箇神と同じ神だという。
(全て出典は『青銅の神の足跡』谷川健一/1979年)
(天麻比止都をまつる近江八幡市「菅田神社」2022夏参詣)
———というわけで、アマツヒコネを祖神とする氏族には、鍛冶・製鉄に従事する人が多かったということで、そんなら東国に移住していったタケコロの一族も、そういうスキルを期待されて、ヤマトタケルの東征軍に加えられた可能性もあるんじゃないか、というのが今回のぼくの想像になる。
景行天皇(15)につづく
※本業のケツに火が付いてきたので、9月の更新はやめときます。10月に「景行天皇」カテゴリーの続きから再開する予定です。
なお今さらですが「このサイトについて」を追記しました。
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