出雲大社はいつできたか『古事記外伝』

出雲大社はいつ創建されたか

熊野大社

(松江市の熊野大社)

まず留意しなければならないのが、出雲大社が「出雲大社」と呼ばれるようになったのは明治4年からで、それまでは地名から取った「杵築(きづき)大社」という社名だったこと(「出雲社」は京都府の出雲大神宮を指したそうだ)


それと、代々出雲大社(杵築大社)を祀ってきた「出雲国造」の元々の本拠地は、いま出雲大社が鎮座する出雲郡(出雲市)ではなくて、意宇郡(松江市)だったこと。


律令体制がスタートしたとき、全国でも有力な7つの神社に「神郡」という"領土"が与えられたが、出雲の神郡は出雲郡ではなく、意宇郡に定められている。

出雲国造家は、その意宇郡に鎮座する「熊野坐神社(熊野大社)」で、「クシミケヌ」という謎の神を祀っていたのだった。


じゃあ出雲国造家が、いつから神郡の郡司と神宮司を兼ねるようになったといえば、ぼくらの愛読書にはこう書いてある。

杵築大社がいつ創建されたのかについては、諸説があって定かではないが、出雲国造氏が神郡である意宇郡の郡司と神官司を兼ねるようになったのは、大化(645年)から天武朝(673~686年)にかけての期間だ。


(『古事記外伝』藤巻一保/2011年)

古事記外伝

要は、天武天皇の御世までは、出雲国造家はまだ意宇郡(松江市)を本拠地にしていたってことのようだ。


正史・日本書紀には斉明天皇5年(659年)のこととして、「この歳、出雲国造に命じて、神の宮を修造させた」とあるが、引用した『古事記外伝』の年代をみる限り、この「宮」は杵築ではなく、現・熊野大社に「神殿」を建てたという記事に読める。


だが、そんな大切な「神郡」と「神殿」のある意宇から出雲国造家が離れる日は、割とすぐにやってきたようだ。


7世紀後半、意宇郡に出雲国の「国府」が置かれて「国司」が赴任してくると、国造家の政治力は一気に低下し、第24代国造「出雲果安(はたやす)」のとき、国造家は祭政の拠点を出雲郡の杵築に移したのだという。

その時期は、果安がトップだった708〜721年のことだ。

杵築大社がいつ創建したのかを述べている史料は存在しないから、これはあくまで推定だが、出雲国造家の杵築移転や、『古事記』が下敷きになっていると思われる神賀詞の奏上がいずれも果安のときということから見れば、この推定はもっとも無理のない、自然な推定だと思う。


鳥越憲太郎氏も、杵築大社の創建は果安のときで、目的は『古事記』の出雲神話を裏づけることだったろうと見ている。


(「出雲という謎」『古事記外伝』)

銅鳥居

なお、杵築大社(出雲大社)のご祭神が、ずっと大国主神だったかというとビミョーなようで、平安初期の史書『先代旧事本紀』では"スサノオは熊野大社と杵築大社で祀られている"とあるし、1666年に毛利の殿さまが寄進した銅鳥居には、"スサノオは杵築大社の神"だと刻まれている。


政治的苦境に立たされた出雲国造家では、歴史上のどこかでクシミケヌとスサノオを「習合」させ、出雲大社をアマテラスの弟の「天つ神(スサノオ)」を祀る神社に昇格?させていたようだ。


出雲大社の歴史に言及する際は、中世から近世まで、祭神がスサノオだったことに留意する必要がありそうだ(最近の出雲国造さんは、クシミケヌはスサノオの別名ではないと力説されている

弥生時代の出雲

荒神谷遺跡

(荒神谷遺跡)

さて以上は現在に続く、出雲国造家がまつる出雲大社・・・の創始についての話だが、もちろん、それより前から出雲地域ではさまざまな祭祀が行われていた。


それまでは"神話の国"のイメージだった出雲を、リアル歴史の舞台に立たせたのが1984〜85年に358本もの銅剣が出土した「荒神谷遺跡」(出雲市)と、1996年に39個の銅鐸が一カ所から現れた「加茂岩倉遺跡」(雲南市)だが、専門家によれば、それらの青銅器はある集団が、不要になった「祭器」を埋納したものだろうということだ。


時期的には、西暦50〜100年頃のこと。


やがて彼らは丘陵から出雲平野に降りてくると、他地域に先駆けて青銅器による祭祀から「墳丘墓」を中心にした祭祀に移行したのだという。

西谷墳墓群

(出雲市の西谷2号墓

上の写真が、彼らが祭祀の主役にしたという「四隅突出型墳丘墓」(西谷墳墓群)。

3世紀半ばに突如として終焉を迎えるまで、一辺30mを超える「王墓」が4基も造営されている。


で、そんな彼らが細々と青銅器による祭祀も続けていたらしき痕跡が、杵築に残されている。

命主社

命主社

現在の出雲大社から、東に200mの場所に鎮座する「命主社(いのちぬしのやしろ)」。


その境内にある「真名井遺跡」からは、江戸時代に銅剣が出土したんだそうだが、記録を見ると「中細形銅剣C類」すなわち、あの荒神谷遺跡に埋納された銅剣と、同じものの可能性があるんだそうだ。

古墳時代の出雲

出雲国の大型古墳の歴史

(出典『八雲立つ風土記の丘 常設展示図録』)

3世紀半ばに、出雲オリジナルの墳丘墓が終焉したのち、出雲西部地域(出雲市)ではこれといった首長墓が造られなかったところに、4世紀後半、突然現れたのが「大寺一号墳」という全長52mの前方後円墳だった。


出雲大社から東に5キロというロケーションで、地元の研究者のあいだでは「ヤマトが打ち込んだクサビ」だとみられているそうだが、このころは杵築の祭祀の方も、ヤマトの影響を受けていたようだ。


2000年に行われた発掘調査では、出雲大社の境内から「祭祀系遺物」としてメノウ製勾玉や滑石製の勾玉・臼玉、手捏ね土器などが見つかっているが、それらは出雲では珍しいもので、「国家祭祀としての大和の祭祀形態の影響」をみることが可能だという。


(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)

出雲大社境内の川の流れ

また、上の「図7」は2000年と2002年の調査で判明した、古墳時代の出雲大社を流れていた「川」の推定図だが、こうした「川」によって外界と隔絶された場所に祭祀場が置かれたのは杵築に限ったことではなく、伊勢神宮の別宮筆頭「荒祭宮」や、日本最古の神社といわれる奈良県「大神(おおみわ)神社」も同様なのだという。


(『伊勢神宮の考古学』穂積裕昌/2013年)


今でこそ、出雲と伊勢、大和(大神神社)の祭祀は似ても似つかぬものだが、その原初期には同じスピリットを共有していたようだ———という話。

丹花庵古墳の長持形石棺

(丹花庵古墳の長持形石棺 松江市のPDF)

出雲大社からは逸れるが、古墳時代の出雲とヤマトの関係が良く分かるのが「淤宇宿禰(おうのすくね)」のものとみられる古墳だ。


淤宇宿禰は、出雲国造家の系譜では「意宇足奴命」の名で、第17代国造として記録される人物。

日本書紀によれば、応神天皇と仁徳天皇の時代に、ヤマトに出仕していたという。


この淤宇宿禰の墳墓にはいくつか候補があるそうで、まずは松江市の大型方墳で「石塚古墳」(一辺40m)。

ここからは、その当時、畿内でも最先端の技術で製造された「人物埴輪」が出土している。


あるいは上の写真、松江市の「丹花庵(たんげあん)古墳」も一辺50mの方墳で、こちらは畿内では「室宮山古墳」や「津堂城山古墳」そして「仁徳陵古墳」といった超一流の巨大古墳で採用された"王者の棺"、「長持形石棺」を採用しているんだそうだ。


5世紀ごろの、出雲とヤマトの友好度がよく分かる一例だと思う。

飛鳥時代の出雲

(山代二子塚古墳・案内板より)

さらに時代を進めて、6世紀後半の出雲。


中央では、大豪族の蘇我氏と物部氏がバトってる最中だったが、出雲にもその影響は及んでいたようで、東部の松江市には92mの前方後墳が、西部の出雲市には92mの前方後墳が、それぞれ争うように築造されている。


松江市の出雲臣(出雲国造家)は蘇我氏と組んで「大陸風飾り大刀」を振り回し、出雲市の神門臣は物部氏と組んで「倭風大刀」を見せびらかしていたそうだが、ご存じのように中央政界で物部氏が敗れると、出雲国一円に蘇我氏の「大陸風飾り大刀」が広まったのだそうだ。


上の図のとおり、今の出雲大社はこの当時、出雲臣の宿敵だった神門臣の支配地域にあったわけで、出雲国造家が出雲大社を奉斎するのは、まだまだ100年以上先の話というわけ。