出雲大社はいつできたか『古事記外伝』
出雲大社はいつできたか
仮に、オオクニヌシが「怨霊」視されて出雲大社に封印されたとして、それは歴史上いつのことなのか。
いや、そもそもオオクニヌシを「封印する装置」としての出雲大社は、一体いつできたものなのか。
『古事記外伝』(藤巻一保/2011)にはこう書いてある。
まず、もともと出雲国造が祀ってきた神は、熊野大神(クシミケヌ)であってオオクニヌシではなかった。
それは出雲国に設置された「神郡」が、出雲大社のある出雲郡(出雲市)ではなくて、熊野大社のある意宇郡(松江市)だったことから分かる。
出雲国造の本来の奉斎社は、出雲大社ではなくて、熊野大社だった。
※なお、「神郡」が設置された時期は、 大化から天武朝にかけての645〜686年のあいだの期間だと考えられているんだそうだ。
(熊野大社)
日本書紀には、659年に出雲国造が「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」の造営を命じられたという記事があるが、これが熊野大社のことか、出雲大社のことかは、議論が分かれてるようだ。
ただ『古事記外伝』では、出雲国造が本拠地を意宇郡から出雲郡に移したのは、第24代の出雲果安の代(708〜721年)であることから、前者(熊野大社)が妥当と見ているようだ。
つまり、出雲大社ができたのは、8世紀初頭ということだ。
そして非常に興味深いのが、その8世紀初頭には、「出雲神話」に神話全体の1/3を割いて詳述する『古事記』と、国譲りにおける祖先(アメノホヒ)の功績を出雲国造が天皇に奏上する祝詞『出雲国造神賀詞(かんよごと)』がまとめられていて、両者が世界観を共有していることだ。
と『古事記外伝』はいう。
鳥越憲太郎氏も、杵築大社(出雲大社)の創建は果安のときで、目的は『古事記』の出雲神話を裏付けることだったろうと見ている。
(「出雲という謎」)
なるほど、「出雲大社」と「古事記」と「神賀詞」は、ひとつの目的を持って同時期に、 ヤマトと出雲が示し合わせて作ったメディアミックス?ってかんじだろうか。
目的はもちろん、スタートしたばかりの律令体制を、精神文化面からサポートすることだろう。
スサノオを祀る出雲大社
さてこうしてみると、出雲大社にオオクニヌシの怨霊が封印されているという説は、かなり無理のある話に思えてくる。
8世紀の出雲にオオクニヌシ的な王がいたとは考えられないので、仮に歴史のどこかでオオクニヌシがヤマトに殺されたとして、その殺害から出雲大社ができるまでのタイムラグ、怨霊はどこで誰が封印していたのだろうか。
それとも全く放置されて、祟りは野放しにされていたんだろうか。
しかも、ふと気が付くと出雲大社の祭神は、いつの間にかスサノオに代わっていた。
その物証が、境内に残る銅鳥居だ。
1666年に毛利の殿さまが寄進したこの鳥居には、「素戔嗚尊は雲陽大社(出雲大社)の神なり」と刻まれているのだ。
同じようなことは、あの「太平記」にも書かれていて、平安末期から近世にかけて、出雲大社がスサノオを祀っていたことは疑いようがない事実らしい。
そして、出雲国造ほどの宗教的権威が、軽々に祭祀の伝統を変更させたりはしないとしたら、スサノオが祭神だった500〜600年の期間も、出雲大社の神座は西を向いていただろうし、柏手は4回だっただろうし、しめ縄も通常とは逆に張られていたことだろう。
だがスサノオの人生?を振り返ったとき、そこにこの神が怨霊になる理由は全くなく、ゆえに封印する必要も全くないことが分かる。
スサノオはただ母(イザナミ)のいる「根の国」に行くことを望み、紆余曲折はあったが、その希望を叶えたわけで、誰かや世の中を恨むような理由も必要もない。
また、そんなスサノオであればこそ、アマテラスの弟の「天つ神」として、出雲大社の祭神にふさわしいと考えられていたのだろうと、ぼくは思う。
【関連記事】出雲大社は怨霊を封印した神社か
《余談》「韓国」と「空国」
さて、そんな感じでぼくらの愛読書に加わった『古事記外伝』だが、一部に不満もある。
われわれ中高年にありがちな、古代の朝鮮半島を上流に見ようとする戦後教育の悪影響?だ。
例えばコノハナノサクヤヒメと出会うちょっと前の、天孫ニニギが降臨する場面で、『古事記外伝』はこんな解説をしている。
『古事記』の天孫降臨神話のつづきを読もう。
サルタヒコに先導されて、天孫は九州の高千穂の峯に天降った。
その地を称えて、ニニギは「ここは韓国に向い、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、ここはいと吉き地」
(この地は 朝鮮に相対しており、笠沙の御碕にまっすぐ道が通じていて、朝日のまともにさす国であり、夕日の明るく照る国である。だから、ここはまことに吉い土地だ)
だといい、宮殿を建てて住みはじめた。
天降ってまず最初に、「韓国」に向いていることをよい土地の条件に挙げているのは、大王家と朝鮮半島の、なみなみならない関係の深さを物語っている。
なるほど確かに「古事記」ではニニギが「韓国(からくに)」と言っている。
だが『古事記外伝』では「古事記」には藤原氏の作為があり、本来の皇室の伝承は「日本書紀」の本文(正伝)だと繰り返し論じてきたはずだ。
では同じ部分を、当の「日本書紀」本文は何と書いているのか。
このようにして、皇孫のいでます姿は槵日の二上(霊奇な峰の二つ並び立つ山)の天浮橋から、浮島があって平らな所に立たれ、荒れてやせた不毛の国のずっと丘続きに良い国を求め、吾田(鹿児島県薩摩半島南西部の南さつま市加世田付近)の長屋(長屋山)の笠狭の碕(野間岬)にお着きになった。
(『日本書紀 全訳 上巻』宮澤豊穂)
荒れてやせた不毛の国。
原文だと「而膂宍之空國(空国)」。
皇室の正史、「日本書紀」本文にはそう書いてあるのだ。
「韓国」ではない。「空国」だ。
『古事記外伝』は素晴らしい本だが、「業界人」の書かれた本からは、何か見えない"縛り"のようなものを感じる時が、たまにある。
《追記》古代出雲祭祀の考古学
平成12年、14年に行われた出雲大社境内の調査から、興味深い考古学的FACTを。
まずは4世紀後半の祭祀系遺物で「玉類」が出土しているが、それらは出雲では珍しいもので、「国家祭祀」としてのヤマトの影響を見ることができるものだそうだ。
(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)
上の「図7」は、そのとき発見された古代の境内を流れていた「川」の様子。
境内を南北に流れる二本の川が、いまの拝殿あたりで「Y」の字に合流し、背後は「山」。
「外界とは隔絶された小空間」が、本来の出雲大社の立地だったということだが、実はよく似た立地の神社が他にもある。
なんと伊勢神宮(内宮)の別宮筆頭「荒祭宮」だ。
(「図38 内宮要図」から切り抜き)
「図38」の出典は、『伊勢神宮の考古学』穂積裕昌/2013年。
向きは違うが、荒祭宮が南北を「小支谷」に挟まれた「尾根筋」の頂部に位置していることが見て取れる。
穗積さんによれば、このような川(谷)で隔絶された丘の上に立つ神社として、三輪山麓の「大神神社」(大和国一の宮)があるとのこと。
以上のことは、内宮、特に荒祭宮の立地部分が古墳時代祭祀場の占地としても典型的であることを示すとともに、その立地が地域内の事情ではなく、汎国的なレベルで決定されている可能性を示唆している。
つまりは古墳時代、出雲はまだ特殊な場所だったわけじゃなくて、ヤマトの影響下、伊勢や三輪と同じ宗教観のなかで祭祀を執り行っていたようだ、という話。