出雲神話②出雲のイザナミ

〜揖屋神社・神魂神社〜

揖屋神社のイザナミ

揖屋神社

松江市東出雲町で「イザナミ」を祀る、式内社の「揖屋(いや)神社」。


日本書紀の斉明天皇5年(659年)の条に登場し、出雲では正史に最初に登場した神社として知られる。

この歳、出雲国造に命じて、神の宮を修造させたところ、狐が於友郡の人夫のもっていた葛の端をくい切って逃げた。 

また、犬が死人の腕をくいちぎり、言屋社(島根県松江市東出雲町の揖屋神社)に置きざりにした〔言屋、これを伊浮という。天子がお崩れになる前兆である〕。 


(『日本書紀(下)』井上光貞)

イザナミと夫のイザナギが離別した場所を「黄泉比良坂(よもつひらさか)」というが、古事記はそれを「今の出雲国のイフヤ坂」だと書いている。


黄泉比良坂の比定地は揖屋神社からはほど近く、神社と史跡と祭神が一体となって、古事記の世界観を再現している印象もある。


なお、近世の文献には、揖屋神社の祭神にイザナミの名は見えないそうだ。

(『日本の神々・神社と聖地7・山陰』1985年)

神魂神社のイザナミ

神魂神社本殿

こちらも松江市にある「神魂(かもす)神社」。


もともとは通常の神社ではなく、「出雲国造家の大庭における祖神の斎場」ではなかったかと、『日本の神々7』には書いてある。


出雲国造の祖神というからには、神魂神社の主祭神は「アメノホヒ(天穂日命)」かと思いきや、なぜか、イザナミなんだという(イザナギを合祀)。


アメノホヒは、アマテラスとスサノオの「うけい」から2番目に生まれた男神なので、「祖神の祖母」を祀ってる理屈にはなるが、なんだかスッキリしない話だ。


そもそも出雲には「国引き神話」という独自の国土創世神話があるのに、なぜにヤマトのイザナミが出てくるのか。


ところが、その国引き神話の載る「出雲国風土記」にも"イザナミの時代"のこととして、日淵川の池を築いたときに古志(越)の人たちが来て堤を造った、というエピソードがあったりして、出雲でも"イザナミの時代"があったことは、受容されていたらしい。

ふたつの出雲神話

解説 出雲国風土記

この件について、島根県古代文化センターが発行している『解説 出雲国風土記』(2014年)では、風土記の詳細な分析を通して、風土記が古事記の影響を受け、古事記を意識して編纂されている点を解説している。


いわく、古事記と風土記は「ふたつの出雲神話」として、相互補完の関係でさえあったんだそうだ。


なるほど、古事記はその序文によれば712年の成立。

733年に成立した風土記には、古事記を参照するだけの十分な時間があった。


ただちょっと腑に落ちないのは、例えば古事記に出てくる「イナバの白ウサギ」は、出雲国風土記じゃなくて「因幡国風土記(逸文)」に出てくるし、「ヤマタノオロチ」は「伯耆国」のそれだ。


それらも、それぞれを担当した中央貴族の国司が、古事記を読んで借用したものなんだろうか。

『イリヤッド』小学館

(『イリヤッド』小学館)

というのも、『解説 出雲国風土記』には、風土記の神話は出雲の「地域社会の神話」ではなく、単に「出雲国造家の神話」だったのではないか、という説も提示されているのだ。


出雲国造家といえば、律令制で国造の権限が制限されるまでは、山陰ではトップの家柄だったわけで、そんな家柄には、きっと山陰一帯の神話や伝承が集まってきたことだろう。


ならば古事記の「出雲神話」とは、もともとは出雲国造が収集した山陰の神話や伝承を、中央の誰かが吸い上げて体系化したものだったんじゃないだろうか。

蘇我氏と古事記と出雲国造と

六国史以前 日本書紀への道のり

以前読んだ『六国史以前 日本書紀への道のり』(関根淳/2020年)という本には、古事記が「継体天皇の母系」や「聖徳太子の偉業」「崇峻天皇の暗殺」などをスルーしている点から、「原古事記」は蘇我氏、それも中大兄皇子に味方した、「蘇我倉山田石川麻呂」の手元にあった「天皇記(帝紀)」ではないか、という推察があった。

『出雲国風土記と古代遺跡』

蘇我氏と出雲国造の関係は、考古学からも確認できる。


6世紀後半の中央では、「装飾付大刀」なるアクセサリーが大流行していて、辺境の出雲にもそれは波及していた。


出雲の西部(出雲市)では物部氏が推す「倭風大刀」が、東部(松江市)では蘇我氏の推す「舶載系大刀」が、所属するグループの証明として所有されていたそうだ。

出雲出土の装飾大刀を検討すると、西部出雲出土のものはねじり環頭、くさび形柄頭などの伝統的倭風大刀で中央豪族の物部氏との関わり、東部出雲出土のものは単龍・三葉・獅噛・双龍など各種図像の環頭でつくられた大陸風飾り大刀で蘇我氏との結びつきで配布を受けていたが、物部氏滅亡後は出雲全体が同じような装飾大刀になるという。


 (『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭/2002年)

出雲東部の豪族ってのは、もちろん出雲国造家のことだ。


この蘇我氏との結びつきの中で、国造さんが「出雲神話」を提供し、それを蘇我氏が自家製の「天皇記(帝紀)」に組み入れた可能性は、あってもおかしくはない気がする。


日本書紀に「出雲神話」がほとんど載らないのも、編纂時の権力者、藤原不比等が蘇我本家を滅ぼした中臣鎌足の実子であることも、何か関係があったのかも知れない。



その③「カミムスビの宮殿 〜命主社〜」につづく