出雲神話⑫ヤマトタケルの建部と出雲族の東遷

出雲の健部

近江国一の宮「建部大社」本殿

滋賀県大津市で「日本武尊」を祀る、近江国一の宮「建部大社」。


「建部(たけるべ)」は、ヤマトタケルにちなんだ朝廷直属の軍事氏族集団だとかで、日本書紀には息子の死を悲しんだ景行天皇が、その43年に「武部」を定めたと書いてある。


森浩一/門脇禎二編『ヤマトタケル』(1995年)の巻末資料によると、地名として残る「建部郷」は、尾張・美濃・伊勢の東海と、備前・備中・美作の山陽、それと出雲にあったようだ。


出雲国風土記には「出雲郡」のトップ記事として「健部の郷」についての記述がある。

健部の郷。

(中略) 

その後、改めて健部と名づけたのは、景行天皇が、「わたしの御子、倭健の命の御名を決して忘れまい」とおっしゃって健部をお定めになった。

その時、神門の臣古祢(こみ)を、健部としてお定めになった。

その建部臣たちが、昔からずっとここに住んでいる。だから、健部といった。

 (『風土記・上』角川ソフィア文庫)

「古祢」を「ふるね」と読む人もいるが、出雲国風土記研究の第一人者といわれる加藤義成氏は「こみ」と読み、出雲ではそれが一般的なようだ。


んでその「健部の郷」がどこにあったかというと、またもや例の「荒神谷遺跡」の付近なのだった。

森浩一/門脇禎二編『ヤマトタケル』

出雲はいつヤマトに降伏したか

ところで日本書紀には、ヤマトタケルが出雲に立ち寄ったという記録はない。

ヤマトタケルが出雲を降したと書くのは、「古事記」だ。


古事記によると、クマソ征伐の帰路に出雲に滞在したヤマトタケルは、交友関係を結んだ出雲建(たける)を騙し討ちで殺害すると、その死をあざけ笑ったという。


景行天皇28年のことなので、長浜浩明さんの計算だと西暦304年ごろの話だ。

建部大社神門

一方、日本書紀では出雲の降伏はもっと早い時期だとされる。


まず崇神天皇60年(237年ごろ)に、矢田部造(物部氏)の「武諸隅」が出雲から「神宝」を提出させ、これに不満を表した族長の「出雲振根」が、四道将軍に誅殺されている。


続いて垂仁天皇26年(254年ごろ)、五大夫の重臣「物部十千根」が直接出雲に出向き、出雲の神宝を検校して、管理下に置いている。


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建部大社拝殿

神宝を奪われることは部族の降伏を意味するという説(岡田精司)をとれば、この時が出雲全域がヤマトに屈した時期だろうと、ぼくは思う。


さらに垂仁32年(257年ごろ)には、殉死を廃止させたい天皇の意向を汲んで、「臣下」の野見宿禰が「埴輪」を発案し、出雲国から「土部」100人を召し出して製作に当たらせたというエピソードがあって、ヤマトと出雲の上下関係はもはや完全に決定していたようだ。

出雲と東海の物部氏

んでここで話を「健部」に戻してみたいんだが、埴輪を作るために100人もの専門職人を出雲から呼び寄せたヤマトなら、出雲の健部郷からは当たり前のこととして、兵力の徴発もしたんじゃないだろうか。

白鳥伝説

それでぼくが注目したいのは、日本書紀に二度でてくる「出雲の神宝」の提出に、二度とも関わっている物部氏の存在だ。


「先代旧事本紀」によると、神武東征に先駆けて、ニギハヤヒのお供に天上界から降臨したという物部氏は25部族。


その分布は畿内と筑紫に集中していて、民俗学者の谷川健一氏は『白鳥伝説』(1986年)の中で、筑紫で発祥した物部氏の「東遷」を考察されている。


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一方、先代旧事本紀には「国造本紀」という巻がある。

そこではニギハヤヒの降臨から300年以上あとの時代の国造の分布が記載されていて、多くの物部氏の名を見ることができる。


そのうち、物部系の国造が特に集中しているのが、愛知から伊豆にかけての東海地方だ。


国造の大半は4世紀に初めて任命されたとあるので、その年代に絞れば内訳はこうなる。

参河(みかわ)国造 …物部連の先祖の出雲色大臣命の五世の孫の知波夜命…


遠淡海(とおとうみ)国造 …物部連の先祖の伊香色雄命の子の印岐美命…


久努(くぬ)国造 …物部連の先祖の伊香色男命の孫の印播足尼…


珠流河(するが)国造 …物部連の先祖の大新川命の子の片堅石命…


廬原(いおはら)国造 …池田坂井君の先祖の吉備武彦命の子の意加部彦命…


伊豆(いず)国造 …物部連の先祖の天○桙命の八世の孫の若建命…

 

 (出典:『先代旧事本紀』の現代語訳/HISASHI)

登呂遺跡

(登呂遺跡)

本居宣長によれば、東征に向かうヤマトタケルを火攻めにしたのは、現地に残っていた「蝦夷(えみし)」だという。


蝦夷というと凶暴な野蛮人のようなイメージがあるが、中味は「登呂遺跡」なんかに住んでいた縄文系弥生人だろう。


東海地方の国造に任命された物部氏が、原住民の蝦夷を追い払ったのか、共存したのかは不明だが、いずれにしても従軍し、屯田する兵力は必要だったことだろう。


その中に、のちに「健部」と呼ばれた地域出身の出雲族がいても、タイミング的には不思議な話ではないように、ぼくには思える。


というか、意宇郡の勢力に敗れて「四分五裂」に陥ったという「プレ出雲氏」が、その後ものうのうと出雲郡で暮らしていたという方が、不自然なんじゃないだろうか。

先代旧事本紀

関東の「出雲系」の国造

まぁ何の証拠もない話なので真偽は措いておくとして、さらに「国造本紀」を読み進めると、今度はまた別のグループが集中して国造に任命されているエリアにぶち当たる。


関東の「出雲系」の国造たちだ。


彼らは、出雲国造が祖神とする「天穂日命(アメノホヒ)」の末裔を称する人々で、そのリストはこんなかんじ。


○相武国造(さがみ)神奈川県中央部

○无邪志国造(むさし)神奈川東部・東京・埼玉

○上海上国造(かみつうなかみ)千葉県中央部

○伊甚国造(いじみ)千葉県茂原市

○菊麻国造(きくま)千葉県市原市

○阿波国造(あわ)千葉県館山市


むむ、かなり広大なエリアだが、なんで出雲を遠く離れた関東に、これほど多くの出雲族が割拠してるんだろうか。

スサノオを祀る武蔵一の宮・氷川神社

(スサノオを祀る、武蔵一の宮・氷川神社)

関東の国造の大半は、第13代成務天皇の時代にその職に就いている。

成務天皇の在位は、長浜浩明さんの計算では西暦320〜350年だ。


当然、それより前の時代に出雲から多くの人々が移動してきたとして、正史・日本書紀からその可能性を探すなら、景行天皇40年(310年ごろ)に開始された、ヤマトタケルの東征の他はないんじゃないだろうか。


海洋民の出雲族なら船団での移動はお手のものだし、土器や鉄器の製造にも長けている。

ヤマトに降伏した出雲族はヤマトタケルに従軍し、蝦夷を追い払いながら新天地に屯田していったんじゃないだろうか。


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日本書紀には、東征から帰還したヤマトタケルは連行した蝦夷を伊勢神宮に献上したが、倭姫命がそれを嫌ってさらに西国に移動させ、蝦夷は「佐伯部」の祖となったという記載がある。


のちの「俘囚」の元祖のような話だが、降伏した出雲族がそうされなかった保証はどこにもないと思う。

邪馬台国時代の関東 - ヤマト・東海からの「東征」と「移住」はあったのか -

もちろん!この件についても、残念ながら物証はなにもない。

ふだんは部族の痕跡になりうる「土器」の類いが、その頃すでに「土師器(はじき)」という地域性の薄い新型に移行してしまっていたのが厳しいところだ。

古墳出現期には関東地方各地の土器様式圏の差異性は急激に収斂し、共通性が目立つようになります。

そして古墳前期には汎列島的な斉一性を備えた「土師器」が定着します。


(『邪馬台国時代の関東 - ヤマト・東海からの「東征」と「移住」はあったのか - 』2015年/より、西川修一氏の論考)

出雲を原郷とする人たち

最後にいちおう整理すると、崇神60年(237年ごろ)に「意宇郡の出雲族」にヤマトを呼び込まれて四分五裂した「出雲郡のプレ出雲氏が、物部軍団に編入されて東海に屯田したのが、第一波。


垂仁26年(254年ごろ)に神宝を奪われて降伏した「意宇郡の出雲族」の一部が、物部軍団や日本武尊に従軍して関東に屯田したのが、第二波。


・・・厳密なもんじゃないが、そんな感じで出雲族は東国に拡散していったのかなーと、現状でぼくはそんなイメージを持っている。


もちろんこの道の専門家、岡本雅享氏が『出雲を原郷とする人たち』(2016年)で展開されている、「海の道」による出雲族の北陸や九州への「移住」という拡散は、また別の話なわけで、出雲を巡る謎は尽きることがない・・・。



出雲神話⑬ミホススミとタケミナカタの日本海文化圏」につづく