五世紀の出雲の「淤宇宿禰(おうのすくね)」とヤマト

野見宿禰と淤宇宿禰

出雲地方の代表的な3つの地域で、大型古墳がどのように変遷していったかを、その形と大きさで示したもの

左から、西部(出雲市周辺)、中央部(松江市南部)、東部(安来市周辺)

上の図は「出雲地方の代表的な3つの地域で、大型古墳がどのように変遷していったかを、その形と大きさで示したもの」で、出典は松江市の「八雲立つ風土記の丘」が発行している『常設展示図録』(2020年)。


中央のクリーム色は今の松江市南部で、奈良時代に律令政府が「国府」を設けるまでは、出雲国造家の本拠地だったという地域。


当然、古墳も沢山あるし、一の宮「熊野大社」をはじめ、出雲国造家が奉斎した神社も多数ある。

意宇川と熊野大社

(意宇川と熊野大社)

日本書紀で、出雲からヤマトに出仕していたことが最初に記録される人物は、第11代垂仁天皇に仕えた「野見宿禰(のみのすくね)」。


野見宿禰は垂仁天皇32年(長浜浩明さんの計算だと257年ごろ)、殉死に代わる方法として「埴輪」の製作を天皇に進言して、喜ばれている。

相撲取りの元祖としても有名だ。


それから150年ほど経った応神天皇41年(同410年頃)、久々に日本書紀に登場した出雲人が、出雲臣の祖「淤宇宿禰(おうのすくね)」だ。


出雲国造家に伝わる「古系図」によると、淤宇宿禰は初代の「天穂日命(あめのほひ)」から数えて17代目として、「意宇足奴命」の名で記録されているそうで、この頃の国造家はまだ「出雲」ではなく「意宇」さんを名乗っていたようだ。

意宇川

(意宇川 写真AC)

ところでこの淤宇宿禰だが、応神天皇の下で倭の「屯田(みた)」と「屯倉」を管理する「屯田司」なる役職に就いていたようだ。


そこに応神天皇崩御のドサクサ紛れか、皇子の一人「額田大中彦」がやって来て、「屯田」と「屯倉」は「山守の地」なので自分が治めると言い出した。


淤宇宿禰が皇太子の「菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)」に諮ったところ、韓国に派遣されている「倭吾子籠(あごこ)」がその辺の事情を知っていることが、「大鷦鷯尊(おほさざき=後の仁徳天皇)」の調べで判明した。


それで淤宇宿禰は、淡路の海人80人を水手に韓国に渡り、吾子籠を連れて帰国した。


吾子籠は、屯田は天皇の直轄地だと定めた垂仁天皇の勅旨を明らかにし、それで大鷦鷯尊は、額田大中彦皇子の要求を退けたという。

5世紀の出雲と淤宇宿禰

古代出雲ゼミナール

さて5世紀前半の出雲に、本当に「淤宇宿禰」という名の人物がいて、応神・仁徳の政権に仕えていたかといえば、まず99%否定されるだろうが、当時の出雲とヤマトがそれに類した関係を結んでいたことは、考古学から分かるようだ。


一番上の図にあるように、5C前半までの意宇(松江・安来)には大型の「方墳」を造る文化があったわけだが、それ以外の地方でも、古市古墳群の「陪冢」の大型化とシンクロするように、方墳の大型化が進んだのだという。


これら地方の大型方墳について、考古学者の仁木聡さんは「大王や王権の直属的な性格を有した被葬者を表現した墳形であった可能性」を指摘されている。


その根拠としては、「王権の潜在的ライバルと目される九州北部と濃尾平野」に140m以上の前方後円墳がないのと同様に、やはり大型・巨大「方墳」も、どちらの地域にも築造されなかったことが挙げられるという。


そして出雲が「方墳」にこだわった理由として、この墳形を王権に奉仕した「奉事根源」の象徴として、「王権という政体に列したという地方豪族のアイデンティティを主張した可能性」が考えられるのだそうだ。

出雲政庁 八雲立つ風土記の丘『常設展示図録』

(出雲政庁 八雲立つ風土記の丘『常設展示図録』)

なるほど、それって丸っきり淤宇宿禰とヤマトの関係そのまんまだが、興味深いことには、律令時代の「出雲政庁」跡の下から出てきた、古墳時代の首長の「居館」跡からは「韓式土器など渡来人の痕跡を示す考古資料が出土」しているんだそうで、これまた淡路の海人たちと朝鮮半島を往復した淤宇宿禰のイメージに重なってくる。


※なお、古墳時代の出雲には前方後円墳もチラホラと見られるが、例えば今の出雲大社の10キロ東にある出雲平野最古の「大寺古墳」(52m)などは、地元の研究者のあいだでは出雲土着の首長の墓ではなく、「ヤマトが打ち込んだクサビ」のようなものと考えられてるんだそうだ。

淤宇宿禰と石屋古墳の人物埴輪

石屋古墳

(石屋古墳 松江市のPDF)

5世紀の意宇には、淤宇宿禰のモデルとなる有力な首長が実際に存在した———とおっしゃるのが地元生まれの考古学者、池淵俊一さんだ。


池淵さんによれば、この頃の大王墓の陪冢が、「出雲の大型方墳と規模や墳形、そして段築といった構造などの面で非常によく似ている」点から、5Cの出雲の大型方墳に葬られた首長は「王権から遠い存在ではなくて、むしろ王権に非常に近い、側近的な首長であった可能性が高い」ということだ。


要するに、5Cの出雲とヤマトはまったく対立なんかしていなかった。


その傍証としては、松江市の大型方墳「石塚古墳」(一辺40m)から出土した「人物埴輪」が挙げられていて、それは「畿内の最先端の埴輪製作技術がいち早く出雲の地域に導入されたことを示す史料」なんだそうだ。

石屋古墳出土の形象埴輪

また、この頃の意宇平野では、平野南部のいちばん高いところに河道が人工的に付け替えられた可能性があり、そういった大規模な土木工事を実現できる首長の存在が想定できるのだという。


※ちなみに池淵さんによれば最近、「菟道稚郎子」が造営した「菟道宮(うじのみや)」に相当する「宇治市街遺跡」が確認されたり、「額田大中彦皇子」に関しても「額田東方遺跡」から渡来系土器が出土したりと、いろいろ興味深い発掘結果が出てきているんだそうだ。


※上の写真は「石屋古墳出土の形象埴輪」古代出雲歴史博物館のサイトより

淤宇宿禰と「丹花庵古墳」の長持形石棺

丹花庵古墳の長持形石棺

(丹花庵古墳の長持形石棺 松江市のPDF)

淤宇宿禰の古墳の候補としては、同時代の畿内と同等の形象埴輪が出土した「石屋古墳」が最有力のようだが、もう一基「丹花庵(たんげあん)古墳」も挙げられるようだ。


というのも、丹花庵古墳は一辺約50mの方墳なんだが、「室宮山古墳」や「津堂城山古墳」そして「大仙陵古墳」など、主に畿内の大型古墳で使われた"王の棺"「長持形石棺」を採用しているんだそうだ。


同じ頃の出雲の前方後円墳は「より下位の棺」と考えられる「舟形石棺」を使っているので、「方形原理優位」の出雲らしい傾向だと、考古学者の藤田憲司さんは書かれている。

(『邪馬台国とヤマト王権』2016年)


※なお、丹花庵古墳は宍道湖の北岸にあるので、いちばん上の変遷図には載ってない。また、仁木聡さん・池淵俊一さんの発言の出典は『古代出雲ゼミナール』Ⅰ〜Ⅳ巻より。

武蔵国北東部の出雲族

四隅突出型墳丘墓ジオラマ

ところで弥生時代後期の出雲西部には、当時としてはわが国最大クラスのお墓「四隅突出型墳丘墓」を代々造営してきた人々がいたが、上の変遷図を見るかぎり、出雲西部にその後継者は見当たらない。

彼らはどこに行ってしまったんだろう。


ぼくは、彼らは意宇の勢力と手を組んだヤマトの軍勢に降伏し、のちの蝦夷や隼人のように、他の地域に強制移住させられたんじゃないかと、空想している。


そして彼らの行き先は、東国だったんじゃないか。

東国には出雲系と称する「国造」が多いし、出雲系の神々を祀る神社も多い。


そしてそれらの神社の創建には、ヤマトタケルが関与したという社伝が多いので、ぼくは西暦310年ごろに行われたヤマトタケルの「東征」軍の主力が出雲西部の人たちで、彼らはそのまま東国に「屯田(とんでん)」していったんじゃないか、とも夢想している。

玉敷神社大鳥居

(玉敷神社)

すでに武蔵国入間郡の「出雲伊波比(祝)神社」や、足立郡の「氷川神社」、多摩郡の「大國魂神社」などは見て回ってるので、今回参詣してきたのは北部の「埼玉郡」。


まずは埼玉県加須市の式内社で、「玉敷神社」。

現在の祭神は「大己貴命」。


玉敷神社は社伝によると、成務天皇6年(323年頃)に、出雲族の「兄多毛比(えたもひ)命」が武蔵国造に任命されたとき、出雲大社の分霊を祀ったことが創建の縁起だという。


元荒川の流域に100社近くが散在する「久伊豆(ひさいず)神社」の中心的存在で、かつては「久伊豆大明神」と称したのだとか(『神社辞典』)。

鷲宮神社大鳥居

(鷲宮神社大鳥居)

埼玉県久喜市の「鷲宮神社」は式内社ではないが、やはり分祠の多い古社で、明治元年には「准勅祭社」に定められたこともあるそうだ(今の東京十社 + 大國魂神社 + 鷲宮神社)。


社伝によれば、出雲から来た人々が大己貴命を祀ったことに始まり、そののちヤマトタケルが東国平定の折に立ち寄って、別宮を建てたことで現在の本殿が二棟並ぶ社殿になったそうだ。

鷲宮神社の本殿

(鷲宮神社の本殿)

ただ、江戸時代初期に林羅山が参詣したときの主祭神は、第36代孝徳天皇の子「有間皇子」だったというし、その後は「富士山神」を祭っていた記録もあるそうだ。


それでも18世紀初頭には、現在の「天穂日命」と「武夷鳥命」親子に落ち着いたが、そこにさらに大己貴命が加えられたのは、江戸時代も終わりに近い1826年のことだったという。


詳しいことはこちらの論文(PDF)を。「鷲宮神社の祭神― 近世における祭神変容の一事例 ―池尻篤



百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)と河内政権論」につづく