倭の五王④興 

〜安康天皇と市辺天皇、佐紀、世子〜

安康天皇とウワナベ古墳

ウワナベ古墳

上の写真は奈良県奈良市の「ウワナベ古墳」(写真AC)。

最近の調査で墳丘長が270〜280mに達すると分かり、それまで「佐紀古墳群」では最大とされた神功皇后陵「五社神古墳(ごさしこふん)」を抜いて、全国でも12位に浮上したのだとか。


築造は5世紀中ごろで、宮内庁では仁徳天皇の2番目の皇后「八田皇女(やたのひめみこ)」を被葬者に治定してきたが、佐紀古墳群で最大となれば事情も変わってくるだろう。

河内王朝の陵墓と宮都

(出典『古代日本の地域王国とヤマト王国・上』(2000年)

5世紀に大和に葬られた天皇は、第20代安康天皇、第23代顕宗天皇、第25代武烈天皇の三帝で、うち顕宗と武烈は「葛下郡」ということなので、いまの北葛城郡・香芝市・大和高田市に広がる「馬見古墳群」に眠られていることになる。


強いて候補を挙げるなら、顕宗天皇は「川合大塚山古墳」(215m)、武烈天皇は「狐井城山古墳」(140m)あたりになるんだろうか。


んで残る安康天皇は、奈良市の「添下郡」ということなので、佐紀古墳群最大の「ウワナベ古墳」の被葬者には、安康天皇が収まりがいいように、ぼくには思えるのだった。

倭の五王の系図

(出典 左『倭の五王』森公章   /右『謎の四世紀と倭の五王』瀧音能之)

安康天皇は第19代允恭天皇の第二皇子で、有名な第21代雄略天皇の兄に当たる。

通説では「倭の五王」の4番目、「興」だとされている。


即位までの経緯はこうだ。


允恭天皇24年(長浜浩明さんの計算で445年)、皇太子の第一皇子「木梨軽皇子」が同母妹と近親相姦したことが発覚。

この時は、妹の方を伊予に移すことで事を収めたものの、いざ允恭天皇が崩御すると群臣からソッポを向かれ、弟の「穴穂皇子(安康天皇)」を推す声が大きくなった。


皇太子は穴穂皇子の襲撃を計画するが、人望がついてこない。結局は逃げ込んだ「物部大前」の屋敷を穴穂皇子に囲まれて、自殺したとも、妹のいる伊予に流されたとも、日本書紀は曖昧に書いている。

道後温泉

(道後温泉 写真AC)

こうして454年、安康天皇が即位したが、その在位はわずかに3年。


讒言を信じて誅殺した皇族の妃を奪って皇后に立てたところ、その連れ子で7才になる「眉輪王」に真相を聞かれてしまい、酔って昼寝をしているところを襲われて、殺害されてしまったのだった。


んでこの後、実行犯の眉輪王、それを非難しなかった兄たち、それをかくまった「葛城円大臣」などを殺しまくって、第21代雄略天皇が誕生する・・・というのが、話の流れだ。

①安康天皇はなぜ佐紀に葬られたのか

5世紀ごろの天皇系譜

(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)

さて3年という短い在位ではあるものの、安康天皇にも古代史ならではの「謎」が三点はあると思う(もっとあるのかも知れないが、問題を見つけるにも知識が必要なので・・・)。


まず一つ目は、安康天皇はなぜ佐紀古墳群に葬られたのか。


倭の五王②済」の記事に書いたとおりで、ぼくは安康天皇の父・允恭天皇は、仁徳天皇の皇子ではあるが兄の履中天皇・反正天皇とは腹違いで、葛城イワノヒメの子ではなく、菟道稚郎子の妹「八田皇女」(仁徳天皇の2番目の皇后)とのあいだに「婚外子」として生まれた皇子である可能性があると思っている。


根拠は、允恭天皇が履中天皇とは19才、反正天皇とも11才と年齢の差があること。

父・兄の「百舌鳥」ではなく「古市」を葬地に選んでいること。

それと「母」の実家であるはずの葛城氏の当主(玉田宿禰)を殺害していること、などだ。


それでいろんな感情の吐露として、宋への遣使では「珍(反正)」との続柄を報告しなかったのではないか(兄と認めてない?)、と考えてみた次第。

和爾下神社

(「和爾下神社」 大和郡山市観光協会のサイト)

んで八田皇女といえば、応神天皇と「和珥氏」の娘の間に生まれた皇女で、允恭天皇の皇后は応神天皇と「息長氏」の娘との間にできた皇子の娘(忍坂大中姫)。


つまり安康天皇につながる女系は、山城・近江を地盤とする「佐紀」の政治グループ出身の人たちだったということだ。

近畿中部の大古墳群

(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

上の「図3」は、古墳時代中期までの主な古墳の分布になるが、多くの専門家が各古墳群の背景に、利害が一致する「政治グループ」の存在をお考えのようだ。


ぼくが汲み取った印象では、最も古い奈良盆地東南部の「大和・柳本古墳群」は、先祖が「高天原」出身だという、いわゆる「神別」の大伴・物部・中臣・忌部らがメンバーか。


4世紀に勃興した北部の「佐紀古墳群」は、先祖が天皇だという「皇別」の和珥・息長・阿倍など。


仁徳・履中・反正の三代が眠る「百舌鳥古墳群」は、「武内宿禰」を共通の先祖とする葛城・平群・巨勢・蘇我といった新興勢力。


※「古市古墳群」は、仁徳・履中・反正の三代のあいだ天皇陵から外れるので、同じ時期に日本書紀から名前が消える「大和・柳本古墳群」の神別グループの飛び地から始まった可能性があると思う(個人の感想です)。

佐紀古墳群の分布

(『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群より抜粋)

安康天皇は在位わずか3年のうえ、いきなりブスッと刺し殺されたんだから、自分で葬地を選ぶ時間なんてなかっただろう。


それでその瞬間はヤマトの最高権力者だった母親(皇太后)の忍坂大中姫、その鶴の一声で安康天皇の亡骸は「母の実家」である佐紀に引き取られていったんじゃないか———というのが、神功皇后陵以来70年ぶり?に佐紀に天皇陵が造営された理由かと考えてみた。


なお、考古学者の坂靖さんは、「興」の墳墓を佐紀古墳群の「ヒシャゲ古墳」に比定されているようだ。

②なぜ市辺押磐皇子に皇位を託そうとしたか

滋賀県蒲生郡の風景

(滋賀県蒲生郡の風景 写真AC)

日本書紀によれば、生前の安康天皇は「市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ」に「皇位を伝えて後事を委任しよう」と考えていたとあり、それを「恨んだ」即位前の雄略天皇は、市辺皇子を近江まで巻狩りに誘い出すと「猪だ!」といって射殺してしまったという。


市辺押磐皇子は履中天皇の皇子で、安康・雄略の兄弟にはイトコにあたる。

その妻は、葛城氏・葦田宿禰の娘「黒媛」。


すでに仁徳天皇の皇子、履中ー反正のあいだで兄弟相続は成立していて、安康天皇が弟を皇太子にすることに微塵も問題はなかったはずなのに、なぜ安康天皇は市辺皇子の立太子を考えたんだろうか。


もちろん、乱暴者で女にも相手にされない弟を嫌ってただけかも知れないが、もしも(葛城イワノヒメではなく)八田皇女がこの兄弟の祖母だとした場合、懐かしい昭和の「大映テレビ」的なストーリーが浮上してくる。


仮に、もしも允恭天皇が八田皇女の子だとしたとき、父の仁徳天皇と母親は「異母兄妹」だ。

当時は異母兄妹でも婚姻が認められたそうだが、近いといえば、あまりに近い。


そして允恭天皇の第一皇子の皇太子(木梨軽皇子)は、第二皇女の同母妹(軽大娘皇女)と近親相姦して、皇位を失った。


さらに系譜に詳しい古事記によれば、安康天皇が略奪婚した皇后を「長田大郎女」というが、全く同じ「長田大郎女」という名前が、允恭天皇の第一皇女に挙げられている。


この点から、古くから安康天皇にも近親相姦の疑いが掛けられているらしいが、ためしに古事記全文から「長田大郎女」を検索してみたところ、ヒットしたのは安康記の2回だけだった(日本書紀の安康天皇皇后は中蒂姫という名前)。

古事記表紙

というかんじで、古事記の「長田大郎女」が同一人物だとした場合、安康天皇はずっと身近に育ってきた実の姉を嫁ぎ先から略奪したことになるわけで、これはもう理性では抑えきれない感情に支配された、「血」がなさせる「業」だと、天皇が思うようになっても不思議ではないような気がする。


苦悩の末に、安康天皇が辿り着いた答えが、皇位を当時全盛の葛城氏を妻と母に持つ、履中天皇の嫡男に「大政奉還」することだったとしたら・・・。


ただおそらくは、当の市辺皇子はそんな話を噂にも聞いてなかったことは、すでに雄略天皇の手で葛城氏の当主・円大臣(つぶらのおおおみ)が焼き殺されて後ろ盾を失っている状況で、ノコノコと巻き狩りに参加したことから分かるというもの。


風土記がいう「市辺天皇命」の気の毒すぎる最期だ。


※ただし、雄略天皇の子、第22代清寧天皇には子がなかったので断絶し、その後継には「市辺天皇」の皇子が相次いで即位しているというのは、歴史の皮肉か(顕宗天皇、仁賢天皇、飯豊天皇?)。

③なぜ「世子」を自称したのか

『古代日本の地域王国とヤマト王国』

ところで、在位3年でこれといった事績もない日本書紀の安康天皇だが、実は日本書紀における「画期」が安康紀なのだという。

歴史学者の門脇禎二さんによれば、日本書紀は安康天皇紀以前と以後で、使っている「暦」が違っているんだそうだ。


安康天皇から持統天皇までは古い「元嘉暦」で書かれ、それ以前の古い方(反正天皇まで)は新しい「儀鳳暦」で割り付けていて、結果、日本書紀の年代で信用していいのは安康天皇の記事かららしい。


同じことは、歴史学者の和田萃さんも書かれているので引用。

『日本書紀』では、神武紀から安康紀の暦日は新しい儀鳳暦、雄略紀から持統紀の暦日は古い元嘉暦に基づいている。

したがって『日本書紀』では、まず雄略紀から持統紀までが編纂され、その後に神武紀から安康紀が編纂されたことが判明する。


(『ヤマト国家の成立』和田萃/2012年)

んでそうなると、これまでぼくらは古代天皇の実年代について、毎回毎回「長浜浩明さんの計算によると」と断ってリンクを貼ってきたが、安康天皇からはその手間が不要になって、皇紀そのまんまの表記でいいことになる。


だが、そうすると早速おかしな話が出て来るわけで、安康天皇の在位は454〜457年の3年だけのはずなのに、462年に宋に遣使したという「倭王・興」、この人いったい誰なんだ?


しかもこの「興」は、自らをまだ即位していない「世子」だといい、宋の皇帝も「世子の興」に対し、「安東将軍・倭国王」を与える展開になっている。こりゃ一体どうしたことか。

済死す。世子の興、使いを遣わして貢献せしむ。世祖の大明六年、詔して曰く、

「倭王世子の興、奕世に忠を載せ、藩を外海に作し、化を稟けて境を寧んじ、恭しく貢職を修む。新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべし。安東将軍・倭国王とすべし」と。


(『宋書』倭国 - 出典『倭国伝』講談社学術文庫)

さっきは市辺皇子の件で、雄略天皇が兄の安康天皇を「恨んで」(中公文庫)といったが、実際に恨まれていたのは市辺皇子だけで兄ではなかったことは、雄略天皇19年(476年)に設置された「穴穂部(あなほべ)」の存在から分かるようだ。


穴穂部は安康天皇(穴穂皇子)の名を後世に伝える御名代で、奈良時代の記録では東国に546人の「孔王部」が見えるのだとか。

また雄略朝には、雄略の兄であった安康天皇(穴穂命。允恭の子)の名を後世に伝える御名代として、孔王部(穴穂部・穴太部)を置いたと伝える(雄略19年3月条)。

(中略)

養老五年(721年)の「下総国葛飾郡大島郷戸籍」(正倉院文書)に、郷長の孔王部志己夫や里長の孔王部荒馬をはじめ、546人の孔王部がみえ、(以下略)


(『ヤマト国家の成立』和田萃/2012年)

『ヤマト国家の成立』表紙

実は兄思いだった雄略天皇———。

ならば「世子・興」として462年に宋に遣使したのも、実は雄略天皇(在位457〜480年)だった可能性はないだろうか。


ひょっとすると安康天皇はビミョーなタイミングで暗殺されてしまい、実際には即位の儀式を行えないまま崩御してしまったのかも知れない。

それで雄略天皇は、宋の皇帝に「倭国王」に叙してもらう形で、即位と同等とみなし、歴代天皇に加えようとした・・・とか。


実際のところ、「倭の五王」さいごの「武」が遣使したのは、「興」の遣使から15年も過ぎてからのことだった。

もはや「武」=専制君主の雄略天皇には、宋の権威は必要ではなかったのかも知れない。


一応、雄略天皇は最晩年の478年にダメ元?で「百済」の統治権を要求してみているが、あっさりと断られると、以後ヤマトは600年の「遣隋使」まで大陸との付き合いを絶ってしまっている。


倭の五王⑤武 〜雄略天皇(葛城氏の滅亡と鏡の復権)につづく