西暦212年頃、四道将軍・大彦、北陸へ

(ヤマトと越)

大彦命を祀る沙沙貴神社

沙沙貴神社

近江八幡市の式内社で「沙沙貴(ささき)神社」。

沙沙貴神社では、有名な古代豪族「阿倍氏」の始祖、「大彦(おおひこ)命」を祭神に祀っている。

古代にこの地を治めた「沙沙貴山(ささきやま)君」が、阿倍氏の同族だからだ。


大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子で、第10代崇神天皇の10年(長浜浩明さんの計算では212年ごろ)、「四道将軍」の一人として、北陸方面を攻略したという人物だ。


聞けばこちらは「近江源氏」の氏神だそうで、現在でも全国の末裔の連絡所になっているんだとか。

誰でも知ってる人だと、乃木希典将軍がその一人だったそうだ。

大彦命のお墓か?御墓山古墳

御墓山古墳

三重県伊賀市の前方後円墳、「御墓山(みはかやま)古墳」。

地元では、大彦命のお墓だと伝わる。

墳丘長は188mで、三重県最大。

なるほどいかにも皇族の墓の威容だが、築造は西暦400年前後とのことで、長浜さんの計算で在位148〜177年の、孝元天皇の第一皇子の墳墓だとは考えにくい。


とはいえ、大彦命が伊賀国に深い関わりがあったことは間違いないようで、日本書紀には大彦命が「伊賀臣」の始祖だと書いてある。

北に広がる大彦命の一族

日本書紀には他にも「阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造」が、大彦の末裔だと書いてあって、このうち遠方の「筑紫国造」を除いた6氏族は、まさに大彦命が四道将軍として平定して回ったであろう道筋に分布していると、歴史家の太田亮氏が書かれている。これは面白い。

順を追ってみてみると、都のあった今の奈良県桜井市を出て、まず大和の宇陀郡に「阿倍臣」、伊賀の伊賀郡に「伊賀臣」、阿拝郡に「阿閇臣」、近江の蒲生郡に「沙沙貴山君」、若狭に「膳(かしわで)臣」、そして加賀に「越国造」の「道氏」と並ぶ。


最後の「道氏(みちうじ)」については、もともとは「蝦夷」だったものが大彦命に服従し、その系脈に組み入れられたと太田亮氏はお考えのようだ。

谷川健一『白鳥伝説』より)

北陸地方のお墓の歴史

大集結・邪馬台国時代のクニグニ

さて四道将軍というと、単なる作り話の「説話」として扱われるのが世の常だと思うが、どうやら高名な太田亮氏は、何らかの歴史的事実として認めていたようだ。


面白くなって、なにか北陸方面のFACTはないかと本棚を漁ったところ、『大集結・邪馬台国時代のクニグニ』(2015年)という本に、興味深い図が載っていた。

考古学者・髙橋浩二さんの「3世紀のコシ」から「図8 コシにおける主な弥生墳墓と古墳の編年」。

コシにおける主な弥生墳丘墓と古墳の編年

四道将軍が派遣されたのは、長浜さんの計算だと212年ごろ。

この当時の「越(コシ)」では、山陰地方で流行っていた弥生墳墓「四隅突出型墳丘墓」を首長墓に採用していたようだ(図の手裏剣みたいなやつ)。


だが、出雲や丹後や吉備がそうだったように、四道将軍が派遣された3世紀初頭から半ばまでには、コシでも墳墓の独自性は失われ、次第にちっさい(ヤマト式の)前方後円墳や前方後方墳を作るようになっていったようだ。

ヤマトと越

時は流れ、日本書紀によると景行天皇25年(302年ごろ)、武内宿禰が北陸〜東方諸国に派遣されて、地形や人々の様子を視察、「日高見国」の攻略を進言した。

そして景行天皇40年(310年ごろ)、東征に出たヤマトタケルは上野の碓日坂で軍団を分けると、「王化に服していない」というコシに、副将の吉備武彦を派遣した。

ヤマトタケルの没後、第13代成務天皇は5年(322年ごろ)、全国に国境と国造を制定した。


・・・というのが日本書紀に書いてある皇室の記録なわけだが、おお、「図8」を見ると、成務天皇が国造を定めたという320年ごろから、コシでもヤマト式の前方後円(方)墳の大型化が始まってるじゃないか。

これも面白いタイミングだ。

ヤマトの倉庫「万行遺跡」

万行遺跡復元イメージ

イラストは、石川県七尾市の「万行(まんぎょう)遺跡」の復元イメージで、七尾市教育委員会のPDFから借用した。

中央に見える三棟の大型建物は倉庫群で、古墳1期〜2期(270〜300年)ごろのものだそうだ。


んで、これも上掲の「3世紀のコシ」からだが、髙橋さんによれば「計画性や建物の規模、構造等からみて、倭政権による経営が推測されます」とのこと。

ヤマトは西暦300年ごろには、能登に交易用の倉庫群を作れるほど、北陸に勢力を拡げていたというわけか。


それにしても、「図8」の「越中」は興味深い。

同じ時代に、前方後「円」墳と前方後「方」墳が並んで作られてるし、一番デカいのが「方」の「柳田布尾山古墳」(107.5m)というのも、いろいろと考えさせられる。


西暦212年頃、四道将軍・武渟川別、東海へにつづく