宇佐神宮は卑弥呼のお墓か
(『逆説の日本史』を30年ぶりに読んでみて)
宇佐神宮の主祭神は「比売大神」?
2022年春に参詣してきた、山口県下関市の長門国一の宮「住吉神社」。
最近、亀山勝さんの『安曇族と住吉の神』(2012年)を読んだので、備忘録的に記事にまとめておこうかと思っていたところ、不意に頭に浮かんできたことがある。
それは大分県宇佐市の豊前国一の宮、「宇佐神宮」の本殿。
たしか30年前に読んだ『逆説の日本史』(井沢元彦/1993年)には、「宇佐神宮」の三棟横並びの本殿は、中央の「比売大神」こそが邪馬台国の女王「卑弥呼」で、出身地の宇佐で祭られる皇祖神なのだと書いてあった気がしたが、こちらの住吉神社の本殿は、三棟どころか、何と5柱が横並びだったりするのだった。
(出典『ビジュアル版 逆説の日本史1 古代編 上』2008年より)
先に宇佐神宮の本殿の配置について書いておくと、上の「社殿平面図」向かって左の「一之御殿」には主祭神とされる「応神天皇=八幡神」が鎮座。
んで中央の「二之御殿」が比売大神、右の「三之御殿」が「神功皇后」になっている。
これをみた井沢氏は、本来なら「社殿の配置」の「A図」「B図」のように、主祭神(応神)が中央にくるのが「常識」なのに、実際は「C図」になっている。
だから宇佐神宮の主祭神は「比売大神」だと主張されてるわけ。
長門一宮・住吉神社の本殿
(住吉神社・本殿)
んじゃ5柱の本殿が横に並ぶ、長門「住吉神社」の祭神はどうなってるかというと、拝所から向かって左の「第一殿」から順に、「1.住吉三神」「2.応神天皇」「3.武内宿禰」「4.神功皇后」「5.建御名方神」になっている。
井沢氏の説に従うなら、長門国一の宮の主祭神は「武内宿禰」ということになる、のか?
枚岡神社、春日大社の本殿
(枚岡神社・本殿)
こちらは先日参詣してきた河内国一の宮、東大阪市の「枚岡神社」の本殿。
中臣氏の氏神「天児屋根命(あめのこやね)」など4柱を、4棟の「春日造り」で祀っている。
その内訳は、拝所から向かって左から「3.武甕槌命」「4.経津主命」「1.天児屋根命」「2.比売御神」なので、井沢説だとフツヌシとアメノコヤネが主祭神になるんだろうか。
ちなみに中臣氏の同族、藤原氏の「春日大社」の本殿は(当然)同じ4棟の春日造りだが、枚岡神社とは順番が違っていて、左から「4.比売神」「3.天児屋根命」「2.経津主命」「1.武甕槌命」と並んでいるようだ。
阿蘇神社の本殿
(出典 阿蘇神社公式サイト)
上の方の、『逆説の日本史』から引用した「社殿の配置」「B図」は、井沢氏によれば「主祭神としての権威を強調」した形だという。
ぼくらが見てきた大きな神社だと・・・熊本県阿蘇市の肥後国一の宮「阿蘇神社」が「B図」の並び方をしていた。
が、その内訳は「権威を強調」したという中央・奥は「三の神殿」で最も格が低く、主祭神は宇佐の応神天皇と同じく向かって左、「一の神殿」の「健磐龍命(たけいわたつ)」だった。
(春日大社本殿 春日大社公式サイトより)
てなかんじで、ここまで見てきた神社は「例外」とは見なせない大社ばかりなので、井沢氏の説は「宇佐神宮」にしか、当てはまらないことになる。
それでは「中央にあるから比売大神が主祭神だ」という説明は、一般的とはいえない(というか、中央がエラいのは仏像では?)。
出雲大社のしめ縄の「綯い形」にしても、出雲国にもう一社ある名神大社の「熊野大社」が同じ綯い形だというのでは、それを根拠に出雲大社の特殊性を語ることはできないはずだ。
【関連記事】出雲大社は怨霊を封印した神社ではない
井沢氏の歴史観(※30年前)
(宇佐神宮)
せっかくなので今更ながら、30年ぶりに読んだ『逆説の日本史』「神功皇后編」の感想なども書いてみる。
まず井沢氏の歴史観だが、西暦247年の「皆既日食」でカリスマ性を失った邪馬台国の女王・卑弥呼が、狗奴国との敗戦の責任を取らされて殺害されたという仮説から、全てが始まる。
それから150年ほど経つころ、日本列島には崇神天皇〜仲哀天皇と続いてきた畿内の「原大和国家」と、神功皇后・応神天皇の親子が支配する九州の「邪馬台国」が併存する状況になっていた。
西暦400年ごろに邪馬台国が東遷し、畿内の「原大和国家」を滅ぼすとGNPが倍増し、河内に超巨大前方後円墳が造営された。
邪馬台国は大和朝廷になり、「原大和国家」が聖地にしていた伊勢に、先祖である卑弥呼の神霊「アマテラス」を祀り、彼らの出身地・宇佐の卑弥呼の「墓所」には、卑弥呼の実体「比売大神」を祀り、それを「中興の祖」応神天皇と神功皇后の神霊が守護する形の「神社」にした。
それが今の宇佐神宮の「特異な」本殿の配置の理由である・・・というようなことが書いてあって、30年前のぼくらは「おお」とか言って感心して読んでいたというわけかー。むー。
「神功皇后編」の感想
(応神天皇陵 写真AC)
それで、30年ぶりに読みながら「ん?」と思った点を列挙すると、こんなかんじ。
①5世紀に入って古墳が大型化したのは、単にGNPが増大したからではなく、そのころ交流の始まった百済や新羅の使者に、ヤマトの国力を誇示するため。
古墳の構造自体は3世紀代の「箸墓古墳」からの継続性が認められ、政権交替の根拠になるものは存在しない。
②正史「日本書紀」は、神武紀などで皇室の祖神を「高皇産霊尊(タカミムスビ)」だと書いている。
アマテラスが皇祖神に並んだのは、飛鳥時代に入ってからだといわれている。
【関連記事】アマテラスは皇祖神か
③弓削道鏡の「神託事件」で、和気清麻呂が(伊勢ではなく)宇佐に行ったのは、その託宣が宇佐神宮発の神託だったから。
伊勢神宮に行くのは「お門違い」。
④571年に宇佐に示現したのは「八幡神」であって、応神天皇ではない。
両者が「習合」したのは奈良時代後半で、それまで八幡神と皇室には何のカンケーもなかった。
⑤八幡神が749年に「神階」ではなく皇族専用の「品位」一品を受けたのは、皇室が八幡神こそ祖神だと考えていたからというが、他に一品を受けたのはイザナギと吉備津彦。
イザナギはともかく、吉備津彦が九州の邪馬台国の祖神だとは考えにくい。
⑥井沢氏も引用しているように、宇佐神宮は725〜733年の8年間、八幡神だけを「単独で」祀っていた。
なぜ、主祭神?の比売大神(卑弥呼)が後回しにされたのか。
そして神功皇后が祀られて三座になったのは823年で、約90年もの間、宇佐の本殿は二棟だった。
その間、応神・神功による祖神(卑弥呼)の守護はどうなっていたのか。
とりあえず、読みながらのメモはこんなものだった。
古代史に興味を持って、4年も経たないぼくでも多少の反論は思いつくわけで、この30年間、この本がどれだけの批判を各方面から受けてきたものか。
古代史は特にプロ顔負けの一般人が多い分野なのに、井沢氏もさぞかし辛い思いをされたことだろう・・・。
なんて同情してみたが、2008年のビジュアル版でもほとんど意見を変えてないんだね、井沢氏(笑)。
ただ、卑弥呼の墓は宇佐から大和の「箸墓古墳」に変更したようで、邪馬台国の東遷も3世紀半ばに繰り上がったみたいだ。
でも、だとすると宇佐は卑弥呼と全くカンケーなくなるわけで、宇佐に関する全ての主張がなかったことになるはずだが・・・そのまま載ってるよ、すげーや井沢氏(笑)。