西暦357年頃、葛城襲津彦・登場

〜神功皇后は実在したのか〜

「香椎宮」の神功皇后

香椎宮拝殿

福岡県福岡市で仲哀天皇と神功皇后を祀る「香椎宮」。

旧官幣大社で、勅祭社だ。


仲哀天皇9年(長浜浩明さんの計算で354年頃)に天皇が急死したのがここ「橿日宮」で、北部九州を平定した皇后が、髪を「髻(みずら)」に結って「西方の征討(三韓征伐)」を誓ったのも、この場所だった。


男装の神功皇后はここで、「事が成就したなら群臣に功があり、事が成就しないなら私ひとりの罪である」と宣言したというが、4世紀半ばにして皇室のあり方はすでに確立されていたということか。

香椎宮中門

ところで神功皇后といえば、実在の疑われる「天皇(by明治政府)」としては、常に名前が挙げられる人物だ。


いわゆる河内政権論につながる「三王朝交替説」などでも、畿内にあった「仲哀王朝」と九州にあった「応神王朝」を「接続」させるために、仲哀天皇の「妻」にして応神天皇の「母」という神功皇后が構想された、みたいな話になっていたようだ。


ぼくらは日本書紀には「おおむね」本当のことが書いてあると思ってはいるが、こと「三韓征伐」については、さすがにフィクションだろうと思っている。


ただその部分を除けば、神功皇后の実在は信じているし、日本書紀の記述も「おおむね」正しいんじゃないかとも思っている。


根拠になるのは、朝鮮側の史料『三国史記』との整合性だ。

『三国史記』という史書

三国史記

『三国史記』は高麗時代の1145年に完成した歴史書で、朝鮮半島では現存する最古の史料だという。日本書紀より425年も遅れての成立になるが、タネ本にはかなり古いものも使われているようだ。


地続きの利点か、この『三国史記』は中国の史書との照合が進んでいて、とうぜん西暦にも換算されている。


日本書紀には『三国史記』のタネ本が結構引かれているので、間接的に中国の史書との照合が可能になって、大体の西暦もわかるというわけだ。

日本書紀と「百済本紀」の百済王

『三国史記倭人伝』佐伯有清/1988年

さて、日本書紀の「神功皇后摂政紀」には、3人の百済王の没年が記されている。


①肖古王(神功皇后55年薨去)

②貴須王(神功皇后64年薨去)

③枕流王(神功皇后65年薨去)


これを長浜さんの計算で表すとこう。


①肖古王(382年頃に没)

②貴須王(387年頃に没)

③枕流王(387年頃に没)


それで朝鮮側の「百済本紀」にはどう書いてあるかというと、以下。


①近肖古王(375年没)

②近仇首王=貴須王(384年没)

③枕流王(385年没)


確かに誤差はあるが、日本書紀の編纂者と『三国史記』の編纂者が、「おおむね」同じものを見ていたと考えても良さそうなかんじだ。

石上神宮の七支刀

石上神宮

石上神宮に伝わる鉄剣「七支刀」。


日本書紀には、神功皇后52年(381年頃)に百済から「七枝刀一口」を献上されたと書いてあり、それが「七支刀」のことを指しているとされている。


刀身に刻まれた銘文によれば、それは「泰和四年」に製造されたとのことだが、岩波文庫版『三国史記』には、「泰和四年」は369年のことだと書いてある。

〔140〕泰和四年五月十六日丙午正陽、百練の鉄の七支刀を造る。出みて百兵を辟く。供供たる侯王に宜し。□□□□の作なり。先世以来、未だ此のごとき刀有らず。百済王の世子奇生聖音、故に倭王旨の為に造りて、後世に伝え示さん。(表裏全文)


(『三国史記倭人伝』佐伯有清/1988年)

銘文の百済の世子(皇太子)「奇生聖音」を、岩波文庫版に従って「貴須王」だと考えた場合、鉄剣は375年に即位した王がまだ皇太子だった369年に製造され、384年に没する3年前の381年に献上されたという計算になって、おおむね辻褄が合う。


ただし銘文のいう「倭王旨」が神功皇后のことを指しているかどうかは、定かでないようだ。

日本書紀と「新羅本紀」の出兵記録

香椎宮楼門

最後に、しばしば「倭」に攻めこまれたという「新羅本紀」と、日本書紀の出兵記録の比較を。


日本書紀に記された「神功皇后紀」の新羅出兵は4回。


①仲哀天皇9年10月、「三韓征伐」(354年頃)

②神功皇后5年3月、葛城襲津彦を派遣(357年頃)

③神功皇后49年、荒田別・鹿我別を派遣(379年頃)

④神功皇后62年、再び葛城襲津彦を派遣(386年頃)


これに対して「新羅本紀」で倭が攻めてきたというのは3回。

①346年

②364年

③393年


誤差はあるが「神功皇后紀」が全くのデタラメの作り話でないことだけは、認めてあげてもいいんじゃないだろうか。


ただ、長浜さんによれば、日本書紀は古代天皇の寿命を「春秋年」で2倍化しているので、増量した年代の位置によって誤差が大きく出たり、小さく出たりする難点がある。


神功皇后でいえば、日本書紀で69年間とされる在位のうち、13年から46年の間には事績の「空白」があって、この期間の前と後では誤差の大きさに違いが出てしまい、うまく帳尻を合わせることができないわけ。


ちなみに崇神天皇は、その17年から48年までが「空白」で、垂仁天皇は39〜88年が「空白」、景行天皇も28〜40年が「空白」だ。


おおむね、在位期間の中央部分にまとめて「空白」が押し込まれているという印象があるか。

葛城襲津彦の登場

高天彦神社

(葛城氏の氏神「高天彦神社」)

ところで、神功皇后の時代に新羅を攻めたとされる人物に、357年頃と386年頃の2回、出動している「葛城襲津彦(そつひこ)」がいる。


葛城襲津彦は、古事記では「建内宿禰」の大勢の息子たちの1人だとされるが、実際には襲津彦をリーダーとする平群、蘇我、巨勢らの政治グループが「祖・建内宿禰」の旗のもとに集結したものが、古事記の建内宿禰の「系譜」だという説もある。


ソツヒコの娘が仁徳天皇の皇后「磐之媛」で、このイワノヒメから17代履中天皇・18代反正天皇・19代允恭天皇の兄弟が出るに従って、葛城氏は強大な権勢を誇るようになったのだそうだ。

葛木御歳神社

(葛城氏の氏神「葛木御歳神社」)

全盛期の葛城氏は、畿内の海運や水運を掌握し、鉄器製造や林業など、幅広く手がけていたそうだが、その契機となったのが、ソツヒコが神功皇后5年(357年頃)に行った新羅「草羅城」の攻略だったという。


そのときソツヒコは、連行してきた捕虜「俘人」らを、「桑原・佐糜・高宮・忍海」の4つの邑(村)に住まわせていて、この渡来人たちこそが、葛城氏の技術的優位の原動力になったんだそうだ。


その渡来人たちが居住したという「四邑」の現在地は、奈良県の御所市だ。

漢人の祖先が配置されたという四邑のうち、佐糜は現在の奈良県御所市東佐味・西佐味、高宮は御所市伏見・高天・北窪・南郷の一帯、桑原は御所市池之内・玉手のあたりに比定できよう。


いずれも葛城氏の本拠である大和国葛木上郡(葛上郡)内に求められる。

残る忍海は、葛上郡に北接する忍海郡〔奈良県葛城市忍海〕にあたる。ここも葛城氏の本拠に含めてよい。


(『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁/2013年)

なお、応神天皇16年(397年頃)に、ソツヒコは百済から「弓月君」の一団を引き連れて帰化させているが、『新撰姓氏録』によれば、このとき「弓月君」らが住んだのが「大和の朝津間の腋上の地」で、やはり現在の御所市にあたるという。


どうやら357年頃から、ずっと葛城氏の本拠地は御所市にあったようだ・・・。

葛城氏は南進したのか?

室宮山古墳  御所市公式サイト

室宮山古墳  御所市公式サイト

・・・などと一人で納得していたところ、葛城氏は元々は葛城北部(今の大和高田市・葛城市)を本拠地としていたが、4世紀末頃、葛城南部(御所市)に「進出」したという、ぜんぜん違う説があることを知った。

塚口氏は、5世紀初頭の室宮山古墳以後と以前で古墳の規模などに大きな差があることから、もともとこの地を治めていたのは鴨氏であったが、4世紀末の時期に、葛上郡において寺口和田古墳や鴨都波一号墳を築いた集団から、室宮山古墳を築いた集団への首長権交代があったのだろうと推定している。


つまり葛城氏は元来は葛城北部にいたのが、4世紀末に葛城南部にも進出し、こちらに本拠地を移したのであろうという。


(『古代豪族と大王の謎』水谷千秋/2019年)

『古代豪族と大王の謎』水谷千秋/2019年

「室宮山古墳」と言うのは、5世紀初頭に築造された238メートルの前方後円墳で、タイミング的にも葛城襲津彦のものだと考えられる御所市の巨大墳墓(全国18位)だ。


上の引用では、葛城氏が大和高田市あたりから御所市に「南下」してきたから、これが存在するというかんじだが、考古学的にはちょっと問題のある説のような気もする。


というのも、その大和高田市界隈には「室宮山古墳」よりやや先行して、4世紀末に「築山古墳」「巣山古墳」という200メートル超の前方後円墳が築造された事実があるからだ。

馬見古墳群

※緑のマークは北から「鴨都波神社」「葛木御歳神社」「高鴨神社」

それらの被葬者は一体誰なのか。


「南進説」をとれば、まるで葛城氏はそれらの被葬者グループに(大和高田市の)「本拠地」を追い出される形で、南下させられたようにさえ見えてしまうが、葛城襲津彦の一族はそんな弱者だったんだろうか。


ぼくはシンプルに、葛城氏は357年頃には御所市の「四邑」で渡来人を使って実力を蓄えはじめ、397年頃に「弓月君」、のちの「秦氏を手に入れたあたりで、御所市に「葛城王国」を完成させた・・・というフツーの説明のほうがわかりやすいようが気がするんだが。


住吉三神と神戸の古社(廣田・生田・長田)」につづく