西暦319年頃、景行天皇、近江「高穴穂宮」行幸
近江の景行天皇
日本書紀には、第12代景行天皇は58年(長浜浩明さんの計算だと西暦319年ごろ)、近江に行幸して「高穴穂宮」に滞在されたと書いてある。
この時、大和からいっしょに遷座したと伝わるのが、野洲(やす)市の式内社「兵主大社」(2022夏参詣)。
西暦320年に景行天皇が崩じると、早世したヤマトタケルの弟、第13代成務天皇がそのまま「高穴穂宮」で即位した。
その際、側近の武内宿禰に命じて、近江の地主神「大嶋大神」を祀らせたのが創始だというのが、近江八幡市の「日牟禮(ひむれ)八幡宮」。
近江の「高穴穂宮」
そして成務天皇が、父の景行天皇を祀ったという大津市穴太の「高穴穂神社」。
この地は、成務天皇が30年にわたって執政した「高穴穂宮」の候補地でもある。
ただし(珍しいことではないが)ここが「高穴穂宮」だったことを証明できる遺跡や遺物は、今のところ見つかってはいないそうだ。
とはいえ、近江に「高穴穂宮」が営まれた可能性はゼロというわけではないようだ。
「大津市歴史博物館」が2004年に発行した『近江・大津になぜ都は営まれたのか』の中で、歴史学者の井上満郎さんは、「高穴穂宮」や「景行天皇」の実在には疑問の声があると断りながらも、「高穴穂宮」が大津市穴太(あのう)の地名を反映してる点や、当時の大津が渡来人の濃密な居住地だったFACTを踏まえ、こう言及されている。
したがいまして、近江国に初めて設定されました高穴穂宮というのは、渡来人と渡来文化における近江のあり方と考えてみれば解けるのではないか、というふうに考えております。
(「古代近江の宮都論〜渡来人と渡来文化をめぐって〜」)
667年の天智天皇の「近江大津宮」への遷都は、白村江で大敗させられた唐や新羅から「逃げる」ため、安全な奥地に引っ込んだという説が強い。
しかし井上さんは、天智天皇は大和から近江に「退いた」のではなく、むしろ「進んだ」のだと言われる。日本海に出やすい近江の方が、朝鮮半島にまだ健在だった高句麗に近いからだ。
あのとき天智天皇は、近江に広く居住している渡来系の力を集め、高句麗と提携することに活路を見出したのではないか、と井上さんはお考えだ。
安土瓢箪山古墳と雪野山古墳
さてそんな井上説に基づけば、成務天皇(長浜浩明さんの計算で在位320〜350年)の時代にも、近江では朝鮮半島との結びつきが強化されていたことになるはずだが、それを証明できるFACTはあるもんだろうか。
上の写真「安土瓢箪山古墳」は、墳丘長134mと滋賀県最大の前方後円墳で、4世紀中葉の築造とされる。
早ければ、成務天皇の治世には造営されていたタイミングだ。
ところで近江八幡市には、安土瓢箪山古墳より半世紀ほど古く、3C末〜4C前半に築造された「雪野山古墳」(70m)ってのも見つかっていて、この両者の比較が面白い。
考古学者の佐々木憲一さんによれば、雪野山古墳の副葬品はフツーに中国に由来する「鏡」などが主流だったが、50年ほど後の安土瓢箪山古墳の副葬品は、朝鮮半島に系譜がある「筒型銅器」や「鉄製武具」などに入れ替わっているんだそうだ。
佐々木さんは、その背景には、313年に楽浪郡を滅ぼした高句麗の南下圧力があったのでは、とお考えだ。
後ろ盾だと思ってた「中国」が半島から消えてしまったので、ヤマトはもともと親しかった南部の「伽耶(かや)」との関係を強化したのだろうと。
安土瓢箪山古墳の副葬品は、このように朝鮮半島東南部地域とヤマト王権との関係がより密になったことを象徴しているのではないかと考えられる。
(『未盗掘石室の発見 雪野山古墳』佐々木憲一/2004年)
ヤマトタケルによる東国の平定がなされた後、ヤマトの目は国内を離れ、朝鮮半島に向けられたのだろう。
近江出身の神功皇后が「三韓征伐」に出るのは、成務天皇が崩御して5年後のことだ。
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