上の写真は、滋賀県野洲市の名神大社で「兵主大社」(2022夏参詣)。
祭神は八千矛神。
日本書紀によると、景行天皇はその58年(長浜浩明さんの計算で319年頃)に近江国に行幸し、志賀(大津市)の「高穴穂宮」に3年滞在したという。
その際、纒向の「日代宮」にほど近い「穴師」で祀っていた兵主大神を、近江の「穴太(あのう)」に遷座させたのが「元兵主」で、そののち、欽明天皇の時代にあらためて現在地に移したのが「兵主大社」だと、社伝にある。
(兵主大社の境内)
やがて景行天皇がその60年に高穴穂宮で崩御すると、第13代成務天皇が即位した。
日本書紀には成務天皇の皇居についての記述がないので、こういう場合は先帝の宮をそのまま引き継いだと考えるものらしい。といっても纒向を捨てたというわけじゃなくて、成務天皇は、いわゆる「往復生活」を送られていたと思われる。
というのも景行天皇の御陵は奈良の「山辺道上陵」に造営されているし、成務天皇のお墓もやはり、奈良の「狭城盾列陵」とされているから。
ま、あくまで高穴穂宮は「行宮(かりみや)」で、ヤマトの首都はずっと纒向にあったというのが、ぼくの印象。
ぼくらも実際に「高穴穂宮趾」を訪ねてみたが、琵琶湖と比叡山に挟まれて僅かな平地しかなく、ここにヤマトの全機能を移したとは全く思えなかった。
(「高穴穂宮趾」2022夏見学)
それにしてもなぜ、景行天皇は近江に宮をもうけたんだろうか。その理由の一つとしては、近江が母(日葉酢媛)の実家の勢力圏である点が挙げられるような気がする。
ヒバス姫は四道将軍「丹波道主王」の娘で、むろん丹波から輿入れした姫さまだったが、父の父(つまり祖父)が近江とは縁の深い「彦坐王」だ。
ヒコイマスは系譜上は第9代開化天皇の第三皇子とされているが、古事記に4世孫までの一大系譜が載せられてるという、かなり特別な人物。
天皇でもないのに、そんな優遇を受けたのはヒコイマスの他には日本武尊しかおらず、学者の中にはその一点を根拠にヤマトタケルが天皇だったと主張される方もいらっしゃる(吉井巌)。
ならば同じ理由から、ヒコイマスも「天皇」だった可能性があるだろう。
(彦坐王を祀る大津市の「石坐神社」2022夏参詣)
ヒコイマスの母の実家を「和珥(わに)氏」といって、その同族は奈良盆地の東北部から山城の南部、近江にまで16氏族が分布していたという。
大和・山城の他だと、小野臣が近江国滋賀郡、阿那臣が近江国坂田郡、多紀臣が丹波国多紀郡、知多臣が尾張国知多郡、都怒山臣が近江国高嶋郡、近淡海国造は近江国野洲郡か滋賀郡。
他にも伊勢に2氏、上総にも1氏がいたという(『日本の古代豪族100』水谷千秋/2022年)。
そんな和珥氏を母に持つヒコイマスの「お妃」たちの実家は、「山代」「春日(奈良市)」「息長(近江)」「和珥(母の妹)」と、モロに和珥氏の勢力圏と重なり合う。なので歴史学者の水谷千秋さんも、「本来の和邇氏が持ち伝えてきたのは日子坐王を祖とする後裔系譜」だろうとお書きになっている。
母の実家であることに留まらず、ヒコイマスこそが大和・山城・近江に広がる大勢力「和珥氏」の総帥で、”もうひとりの天皇”だった可能性は大きいと、ぼくは密かに考えているところだ。
【関連記事】彦坐王の近江王国「伊勢遺跡」〜和珥氏と息長氏〜
(彦坐王を祀る京丹後市の「網野神社」2021夏参詣)
景行天皇の母・日葉酢媛は、そんな彦坐王の孫娘。
景行天皇の代になってようやく、畿内のヤマトと、近江を中心にしたヒコイマスの勢力が、血統的にも完全に一体化したということなんだろう。
景行天皇からしてみたら、その強力な背景を生かさない手はないと思う。
(大津市 写真AC)
近江に行宮をもうけたもう一つの理由としては、朝鮮半島南部「伽耶(加羅)」との関係強化が考えられるようだ。
西暦280年に中国大陸を統一した「西晋」は、290年に武帝が没すると王族同士の内乱(八王の乱)が起こって混乱を極め、そこに異民族からの侵入を受けたりして、316年に滅亡した。
そんな中華の混乱にうまく付け込んだ?のが「高句麗」で、遼東半島の攻略に成功すると南進して、313年には楽浪郡・帯方郡を相次いで滅ぼしていった。
景行天皇が近江に高穴穂宮をもうけたのは、そんな朝鮮半島の動乱期だった。
歴史学者の井上満郎さんは、景行天皇や高穴穂宮の実在は不明だとしつつ、高穴穂宮が「穴太」の地名を反映している点と、大津が渡来人の濃密な居住地である点を挙げて、朝鮮半島との交流における「近江のあり方」についてお話をされている。
(『近江大津になぜ都は営まれたのか』大津市歴史博物館/2004年)
井上さんによれば、一般的には唐の侵攻を恐れた天智天皇は、大和から近江に「退いた」とされるが、実際にはむしろ「進んだ」とも考えられるという。
日本書紀の欽明天皇31年4月2日の条には、日本に初めて高句麗から使節が来たときのルートが記されていて、それは現在の北朝鮮から日本海にでて、近江経由で大和に向かうものだったそうだ。
天智天皇は東アジアでは唯一、唐帝国に対峙できている高句麗との関係強化を図るべく、日本海に出やすい近江に都を遷した———というのが井上さんの主張になる。
景行天皇と成務天皇が近江・高穴穂宮を拠点にし、南下する高句麗への対抗策として伽耶(加羅)との関係を深めていたことは、近江の古墳事情からも分かるようだ。
考古学者の佐々木憲一さんによると、近江八幡市に西暦300年前後に築造された前方後円墳「雪野山古墳」(70m)からの出土品は、中国大陸との交流を示す副葬品がほとんどだったという。
それが4世紀中葉に入って築造された「安土瓢箪山古墳」(134m)からは、「筒形銅器」や「方形板革綴短甲」といった、朝鮮半島との軍事的な結びつきを表す副葬品が出土するように変わっていたそうだ。
(『未盗掘石室の発見・雪野山古墳』佐々木憲一/2004年)
(出典『古墳の古代史』森下章司/2016年)
上の図は「筒形銅器」の出土例で、以前は日本製と思われていたこの器物は、いまでは総出土数で伽耶地域に並ばれているそうだ。
それで考古学者の森下章司さんは、日本の古墳からは朝鮮製の遺物が「多種」出土するのに対し、伽耶の墳墓からは「他の種類の倭系遺物の出土数が決して多いとはいえない点」に注目されて、文中で断定はされていないものの、筒形銅器の朝鮮ルーツ説を推されている印象だ。
(『古墳の古代史』森下章司/2016年)
ま、どっちが先かはともかくとして、景行天皇と成務天皇の時代に、ヤマトが朝鮮南部との関係を強化していたのは事実のようだ。
このあと、ヤマトタケルの孫に当たる応神天皇の時代になると、ヤマトは半島南部に拠点をおいて、好太王の高句麗と戦うことになる。そのための準備は、成務天皇の時代から着々と進められていたということか。
【関連記事】任那日本府はあったのか 〜朝鮮半島の前方後円墳〜
(出典『百舌鳥野の幕開け』堺市/2011年)
何度も書いていることだが、ぼくはヤマトタケルは30歳で野垂れ死んだりせず、第13代成務天皇として即位したと思っている。
んで上述したとおり、即位したヤマトタケルが成した仕事の一つが朝鮮南部との関係強化だと思われるが、もっと重要なのが、記紀がいう「国造」と「国境」の制定だろう。
ヤマトの全国支配への道筋をつけたのが、ヤマトタケル=成務天皇だということだ。
古事記の序文はこの功績を以って、成務天皇を神武天皇以降の4大天皇のひとりに挙げているほどだ(他は崇神、仁徳、允恭)。
【関連記事】ヤマトタケルは成務天皇か(風土記の倭武天皇と市辺天皇)
ただいかんせん、その人生の大半をヤマトタケル神話として書き換えられ、父・景行天皇の記録の方に移植されてしまった成務天皇ご自身の事績は、あまりにも少ない。
それでも、成務天皇は父の事業を引き継いだのだと考えると、いくらかの復元は可能なような気もしてくる。
まず西国は、景行天皇は宮崎県と熊本県までしか巡幸していないのに対し、ヤマトタケルは鹿児島県に踏み入って、熊襲を倒したとされる。おそらく熊襲の朝貢が始まったのは、成務天皇の時代からなんだろう。
それとヤマトタケルの巡幸先として、古事記が記す「出雲」、日本書紀が記す「吉備」と「難波」も、成務天皇の時代からヤマトの完全支配が始まった地域なのかも知れない。
【関連記事】景行天皇の九州巡幸。豊前石塚山古墳と宇佐赤塚古墳の被葬者
一方、東国はというと、景行天皇は千葉県から茨城県の南部までは掌握したと思われるが、ヤマトタケルはさらに、福島県の「浜通り」から甲信越まで版図を拡げたことが、記紀や風土記から読み取れることだと思う。
蝦夷がヤマトの冊封国に入ったのも、成務天皇の時代からだろう。
【関連記事】関東の出雲族・エタモヒとミツロギ。景行天皇が上総に行幸
・・・まぁ残念ながら、文献から想像できる成務天皇の事績はこんなもんだ。
でも俺はもっと詳しく成務天皇について考えてみたいぜ!という人もいるかと思うので、下に「国造本紀」が成務天皇の時代に制定されたという国造を、オレンジ色でマーカーした地図を載せてみる。
※緑のマーカーは神武〜景行の時代に任命された国造。無印は成務天皇より後の時代。
(出典『国造』篠川賢/2021年を改変)
(出典『国造』篠川賢/2021年を改変)
(亀山市「能褒野墓」2021秋参詣)
最後に、ヤマトタケルのお墓について。
現在、宮内庁によって三重県「能褒野墓」、奈良県「白鳥陵」、大阪府「白鳥陵」の三ヶ所が治定されているヤマトタケルのお墓だが、これらは記紀の記述に基づくもの。
ぼくはヤマトタケルは即位して成務天皇となり、日本国の成立に多大な貢献を残した大英雄だと思っているので、そのお墓も当時の人達が感謝の心で尽力した、巨大なものだと確信している。
ずばり、4世紀中葉から後半に築造され、ついに箸墓古墳(280m)を抜いて、当時日本最大の全長300mに到達した「渋谷向山古墳」こそ、ヤマトタケル=成務天皇の前方後円墳だとぼくは思う。
(出典『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年)
考古学者の広瀬和雄さんによれば、4世紀の前半までに纒向界隈(桜井市・天理市)に造営された天皇陵は、①箸墓古墳ー②西殿塚古墳ー③行燈山古墳の3基だという。
築造年代は、順に①3C半ば〜後半、②3C末、③4C前半ということで、ぼくは順に①崇神天皇(長浜式で在位207−241)、②垂仁天皇(在位241−290)、③景行天皇(在位290−320)のお墓だと思っている。
んで当時の巨大古墳にはもう一系統、纒向からはケッコー離れた南の方に、桜井茶臼山古墳ーメスリ山古墳の二基が相次いで造営されている。
ただこの二基は、大きさだけなら天皇陵に近いものの、前方部がバチ形ではなく「柄鏡型」で、周濠も巡らせなければ、古墳群も形成しない単立墳。
なので広瀬さんは、この二基は「政権ナンバー2」の「傍系の地位」のお墓だといわれていて、ぼくは桜井茶臼山古墳は垂仁天皇の兄「豊城入彦」、メスリ山古墳は景行天皇の兄「五十瓊敷入彦」のお墓だと思っている。
いずれも弟に皇位を譲って、そのサポートに徹した政権ナンバー2だ。
(出典『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年)
それで「渋谷向山古墳」だが、立地や周濠、陪塚などは先代の天皇陵の特徴を受け継ぎつつ、実は立面形においては、桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の「段築」の特徴も取り入れられているのだという。
なので考古学者の千賀久さんは、「二代つづいた二つの系統が統合された」のが、渋谷向山古墳だと書かれている。
(『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年)
さらに、西殿塚ー行燈山を「政治」のトップ、桜井茶臼山ーメスリ山を「軍事」のトップだと千賀さんはお考えで、それらが統合された渋谷向山は、政治力と軍事力を兼ね備えて「王権の安定期」を達成した真に偉大な天皇のお墓ということになりそうだ。
んで、ぼくはその被葬者を、地方に残る伝承をおさめた風土記が「倭武天皇」「倭建天皇」と書き記した、ヤマトタケルこと成務天皇だと思っているわけだ。