吉見百穴と埼玉の出雲族

吉見百穴の出雲族

吉見百穴

埼玉県の比企郡吉見町にある「吉見百穴」。

訪問したのは小学校の遠足以来になるが、今見ても瞬時には理解不能な、不思議な遺跡だ。

古墳時代末期(6世紀末〜7世紀末)の「横穴墓」というものらしい。


写真を見ての通り、丘陵や台地の斜面を掘削して作ったお墓で、5世紀末と言われる埼玉古墳群より後の時代のものだ。


案内板には、西暦647年に発布された「薄葬令」によって、地方豪族が前方後円墳みたいなデカい古墳を造営することが制限された結果だ、とも書いてある。

出雲を原郷とする人たち

ところでこの「吉見百穴」は、一体どこの誰が作ったものなのか。


『出雲を原郷とする人たち』(岡本雅享/2016年)という本によると、吉見百穴の横穴墓は「出雲系」なんだそうだ。

『日本の横穴墓』で、吉見百穴墓群の変遷を五段階に編年整理した池上悟立正大学教授は、その初期型は玄室が方形で、左右の側壁沿いに縁取りされた二つの棺座(遺体を安置した棺を乗せる場所)を付設し、それに対し直角に羨道がつく特徴を持つと分析。

平面でみればT字形をなすこの横穴墓は、出雲意宇型に系譜を持つ出雲系横穴墓だとする。東海から南関東にかけて畿内・河内系横穴墓が分布する中、北武蔵の吉見百穴が出雲系なのは異彩を放つと、池上教授はいう。

棺座

写真は羨道から向かって左の棺座を写したもの。当然、右側にも左右対称で棺座がある。


また、案内板の図だと羨道が膨らんで描かれていて「T字形」に見えないが、実物は池上教授のご指摘どおりだ。


だが不思議なことに、出雲から武蔵への中間地点であるはずの、東海地方や相模などは「畿内・河内系」の横穴墓を採用しているという。


この理由について岡本さんは、新潟から群馬にかけて「出雲祝」系の神社が並ぶことから、"出雲"は北から南下して、埼玉までやってきたのではないか、と書かれている。

埼玉県の出雲系神社

出雲伊波比神社

埼玉県入間郡毛呂山町の「出雲伊波比神社」。

社伝によれば、ヤマトタケルが鉾を奉納して大己貴神(オオクニヌシ)を祀ったのが創始だという。


ちなみに「延喜式神名帳」には出雲国以外の「出雲神社」が9社掲載されてるが、うち2社が埼玉県にある。


名前は冠してなくとも、出雲系と言われる「氷川神社」は284社、「久伊豆神社」は54社、「鷲宮神社」は100社と、まさに出雲宗教王国の様相だ(埼玉県神社庁による集計)。

氷川三社と水の祭祀

見沼の氷川三社

(出典「龍学」さま)

さて武蔵国一の宮「氷川神社」というと、大宮公園にあるデッカい社殿を思い浮かべるのがフツーだが、実は享保時代に干拓されるまでこの地に存在した、「見沼」のほとりに立つ三社を合わせて、"氷川神社"とみなす考え方もあるらしい。


その三社とは、大宮区の「氷川神社」、見沼区の「中山神社(中氷川神社)」、緑区の「氷川女体神社」を指し、それぞれスサノオ、オオクニヌシ、クシナダヒメが主祭神だ。

氷川神社は、広大な見沼を神池そのものと見たて、高鼻の氷川神社を男躰社とし、浦和市三室に氷川女躰社をおき、その中間にある片柳中川の氷川神社(現・中山神社)を簸王子宮とする三社を合わせた壮大な規模をもつ社となって発展したともいわれる。

(『大宮のむかしといま』大宮市/1980年)

そして見沼では、出雲以来の「水辺の祭祀」が行われていたようだ。

見沼は大宮氷川神社の「御沼」であり、もともとは武蔵の国造が、出雲以来の伝統を守って水の神事を行った場所とされている。

(『<出雲>という思想』原武史/1996年)

出雲〜諏訪の「4本柱」っぽい風習もあった。

氷川女体神社で享保期の干拓まで行われていたという、「御船祭」だ。

御船祭は、4本の竹を湖中に刺して神域となし、甁子に入れた神酒を沼の主に献じるというものだった。

近年、氷川女体神社の東南2Kmほど先に位置する「四本竹遺跡」(下山口新田)の発掘では、粘土中に突き刺さった竹が790本も確認され、合わせて古銭なども出土。かつてのお旅所(祭祀場)だったことが裏付けられている。

(『週刊・神社紀行35 氷川神社 大國魂神社』学習研究社)

週刊・神社紀行35 氷川神社 大國魂神社

同書には氷川女体神社の信仰について、「さまざまに伝えられる龍の伝説は、龍に仮託された水神への畏敬の念から発生したものであろう」という記述もあり、そこらも『龍の子太郎』の元となった諏訪地方の「竜神伝説」と微妙にダブってきて、まことに興味深い。

大宮が古代出雲になった日

<出雲>という思想

面白いことに、出雲と武蔵の関わりは、古代に限定されるものではなかった。


『<出雲>という思想』(原武史)によると、明治27年1月、第7代の埼玉県知事に千家尊福(たかとみ)という人が就任するが、実はこの人は、第80代の出雲国造でもあった。


当時の知事は公選ではなく官選だったので、貴族院議員だった千家尊福さんが、なぜか埼玉、とんで埼玉に来ても不思議ではなかったそうだ。

千家尊福さんは知事としての政務をこなすかたわら、氷川神社の祈年祭や新嘗祭には奉幣使として参向している。


原さんは「それはかつて、出雲国造が古伝新嘗祭に際して、神魂神社熊野神社へ参向した光景をほうふつとさせる」と書き、こう謳いあげている。

天皇のいる東京府に接する形で、祭政一致の「古代出雲王朝」の姿が再現されていたのである。

(『<出雲>という思想』第二部 埼玉の謎)

すごい話だ。大宮が古代出雲になった日、というわけか。


天皇といえば、明治天皇が東京に移られてわずか10日目に、関東の神社では初となる親祭を氷川神社で行われたことは有名な話だ。


その理由を探したところ、旅行用のガイドブックにこう書いてあった。

明治元年(1868)、明治天皇は東京遷都に際して氷川神社に行幸。

桓武天皇の平安遷都の際の京都の賀茂神社に習い当社を武蔵国の鎮守として、自ら祭政一致の範を示された。

(『関東の聖地と神社』JTBパブリッシング/2013年)

ううむ、鳴くよウグイス平安遷都の桓武天皇以来って、1000年以上の時間を平気で飛び越えてしまうところが、わが国の皇室のスケール感だな。

古代史の本を読んでると1000年ぐらい、ちょっと前のことに感じてくるから恐ろしい(笑)。


ヤマトタケルの建部と出雲族の東遷」につづく