上毛野・下毛野の分割と「太田天神山古墳」の被葬者

国境の太田天神山古墳

太田天神山古墳

5世紀前半に築造された、群馬県太田市の前方後円墳「太田天神山古墳」。

墳丘長210mは、文句なしの東日本第一位(全国28位)。


こちら、近畿地方の有力者が使った"王の棺"「長持形石棺」を採用し、土器も畿内品とよく似た「水鳥形埴輪」を出土、墳形も「古市古墳群」の「津堂城山古墳」とほぼ同規模の相似形で、応神陵といわれる「誉田御廟山古墳」(425m)の2分の1相似形でもある。


東国では、まさに空前絶後の威容で、考古学者の若狭徹さんによれば「倭政権のメンバーシップを得た有力な同盟者というイメージがふさわしい」とのこと。 

古代王権と古墳の謎

ただ、行ってみて気になったのが、その立地だ。


「上毛野」の中心地というと、赤城山麓の前橋から高崎といったあたりで、そこらには最も古い「朝倉・広瀬古墳群」をはじめ、多くの古墳群が造営されているが、太田天神山古墳のある太田市というと、隣りはもう栃木県(下毛野・下野)という国境地域。


上毛野が誇る巨大古墳は、どうしてこんな端っこに造られたんだろう。

太田天神山古墳のザリガニ

(太田天神山古墳のザリガニ)

太田天神山古墳が築造されたのは5世紀前半というから、中央では仁徳天皇から允恭天皇の御世にあたる。


『先代旧事本紀』には、その頃の東国に起きた大事件が載っていて、仁徳天皇の時代に「豊城命」の四世孫の「奈良別(ならわけ)」が「下毛野」の「国造」に封ぜられたのだという。


つまり5世紀前半に「毛野国」は、上・下に分割されたということだ。


こうしたことは、この時代の千葉県(海上国)や岡山県(吉備国)でも起こっている。

奈良別王と宇都宮の前方後円墳

奈良神社

写真は、埼玉県熊谷市で奈良別さんを祀る、式内社の「奈良神社」。


奈良別さんが創建した神社としては、JR宇都宮駅前に鎮座する下野国一の宮の「二荒山神社」が有名だが、奈良神社の社伝によると、奈良別王は北武蔵にまで出張って開発に取り組んだのだという。


奈良神社は明治42年までは「熊野神社」と称していたので、大した歴史もないのだろうと侮っていたが、武蔵国の「奈良の神」は平安時代の『続日本後紀』や『文徳実録』にも登場するそうで、昔はすごい神社だったらしい。


ただ「奈良」はあくまで当時の「地名」によるものだろうと、『武蔵の古社』(菱沼勇/1972年)では考察されている。

塚山古墳

(塚山古墳)

5世紀前半に下毛野国造に赴任してきたという奈良別さんのお墓の候補としては、宇都宮市の前方後円墳「塚山古墳」(98m)か、同「笹塚古墳」(105m)が挙げられるか(いずれも5世紀中ごろに築造)。


100m前後というと、初代国造のお墓としては小さめに感じなくもないが、どうも栃木県というのは古墳の小さい地域で、最も大きい栃木市の「吾妻古墳」(6C後半)でさえ、127mしかない。

御諸別王と前橋天神山古墳

前橋天神山古墳

(前橋天神山古墳 前橋市教育委員会のPDF)

昭和に書かれた本を読むと、日本書紀は編纂当時の権力者に都合がいいように取捨選択や改ざんが行われていて、文字通りには受け取ってはいけない———みたいに扱われてるケースが結構あるが、奈良別さんの墳墓の候補がちゃんと存在するように、全てがテキトーに書かれているわけじゃないと思う。


他の毛野氏のお墓だって候補はあって、まずは日本書紀で、景行天皇の時代に「本人」が東国に赴任したと書いてある最初の人物、「御諸別(みもろわけ)王」の場合から。



御諸別王は毛野氏の祖「豊城入彦命」の三世孫で、景行天皇56年というから長浜浩明さんの計算だと西暦318年ごろ、任地に着かずに亡くなった父「彦狭島(ひこさしま)王」の跡目を継いで東国に着任すると、蝦夷の兵と戦って主な首領を降伏させたという。


4世紀前半に活躍した御諸別王のお墓としては、その当時に築造された前橋市の前方後円墳「前橋天神山古墳」(129m)が候補に挙がると思う。


こちらは、三角縁神獣鏡二面を含む五面の鏡を出土していて、若狭徹さんによれば「関東以北の前方後円墳でもっとも充実した内容を保持する」「当地の豪族は、この段階から倭王権の一員として活動したことが明か」だとのこと。

藤本観音山古墳

(栃木県足利市の藤本観音山古墳)

なお、4世紀前半では毛野国はまだ分割されていないので、その中心地を群馬と栃木の県境、桐生市・太田市・足利市あたりと考える立場もある。


その場合は、4世紀中ごろに築造された、足利市の前方後方墳「藤本観音山古墳」も御諸別王のお墓の候補になるだろう。

墳丘長117mは、前方後「方」墳としては全国で5位(東日本では3位)という規模だ。


実はこの藤本観音山古墳、のちに築造される太田天神山古墳とは4キロも離れていなかったりする。

彦狭島王と前橋八幡山古墳

前橋八幡山古墳

(前橋八幡山古墳 前橋市教育委員会のPDF)

面白いことに、前橋天神山古墳には先行して造営された同規模の大型古墳があって、それがほんの200mという目と鼻の先に造られた「前橋八幡山古墳」。


ただしこちらは東日本では最大という、前方後「方」墳だ(130m)。


若狭さんによれば、前橋八幡山古墳の築造後、「間もなく」前橋天神山古墳が造られたということだが、日本書紀によれば、御諸別王の父「彦狭島王」の亡骸は、東国の百姓によって盗まれて、上野国に葬り直されたのだという。


わずか200mの間隔で、連続して築造された二つの大型古墳・・・。


これ、彦狭島王と御諸別王の父子のお墓である可能性はないんだろうか。

前方後方墳ベスト10の分布

(前方後方墳ベスト10の分布 前橋市教育委員会のPDF)

そういえばネットなどでは、前方後「方」墳は東国に多い墳形で、ヤマトが採用した前方後「円」墳とは対立的に存在する・・・というような言説を見かけることがあるけど、実際には「方」も大きいものは奈良県に多い。


一方で、藤本観音山古墳のように4世紀も半ばになってから築造されるケースもあって、単純に「新旧」で捉えることもできないし、出雲や那須のように、被葬者の地位(ランク?)でも説明できない地域もあるようで、ホント一筋縄ではいかない話題だ。


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荒田別・鹿我別と浅間山古墳

浅間山古墳

(浅間山古墳 高崎市公式サイト)

前橋天神山古墳に続いては、4世紀末から5世紀初頭ごろ、「西毛」の高崎市に172mの「浅間山古墳」、「東毛」の太田市に165mの「別所茶臼山古墳」と、大型の前方後円墳が相次いで造られている。


4世紀後半というと神功皇后から応神天皇の治世にあたり、日本書紀からこの当時の朝廷に出仕していた毛野の人物を探すと、ちょうど二人いる。


神功皇后49年(西暦380年ごろ)に、新羅征討の将軍に任命された「荒田別」と「鹿我(かが)別」の二人だ。


荒田別は、応神天皇15年(396年頃)に百済から「王仁博士」を護衛して帰朝しているが、このとき同行した「巫別(かんなぎわけ)」は、鹿我別の別名だという説がある。

別所茶臼山古墳

(別所茶臼山古墳 太田市教育委員会PDF)

それで、どっちがどっちの被葬者なのかは分からないが、東日本では第2位(築造時点では1位)のサイズの高崎市「浅間山古墳」の方は、なんでも奈良市の「佐紀陵山古墳」(207m)の5分の4相似形なんだそうだ。


佐紀陵山古墳といえば、いわゆる?「量産型」前方後円墳で、200m級の相似形が、畿内に4基、丹後に1基と造営されている。


ならば高崎市「浅間山古墳」の毛野氏も、それらの豪族たちと同じ政治グループに属していたということなんだろうか。


ちなみに学者の中には、4世紀後半の奈良市あたりに「佐紀政権」の存在を主張する人もいるが、その頃のヤマトのトップは、日本書紀によれば「神功皇后」だ。


神功皇后は、荒田別と鹿我別に新羅討伐の命令を下した人物というわけで、タイミング的には丁度いいか。

竹葉瀬・田道と太田天神山古墳

白石稲荷山古墳

(白石稲荷山古墳 藤岡市公式サイト)

第16代仁徳天皇の在位は、長浜浩明さんの計算だと410〜428年。


この頃に活躍した毛野人はやはり二人で、仁徳53年に朝貢しない新羅を詰問しに渡海した「竹葉瀬(たかはせ)」と、そのあと軍を率いて新羅を攻撃した「田道(たぢ)」の「兄弟」。


このうち「弟」の田道の方は、翌55年に蝦夷の討伐に出かけたものの、返り討ちにあって死亡している。

田道の墓は蝦夷に掘り返されたが、中にいた大蛇がほとんどの蝦夷を咬み殺したのだという・・・。


まぁこんなエピソードがある以上、田道は太田天神山古墳の被葬者にはあまり相応しいとは言えないだろう。


「兄」であり、文官?である「竹葉瀬」こそが、東国最大の巨大古墳に眠る大首長だと、ぼくは思う。


なお、藤岡市には5世紀前半に築造された、群馬県内では4位となる155mの「白石稲荷山古墳」なんてのがあるので、どうしても田道にも大型古墳を!!という方は、こちらを候補に?考えてみられては。

なぜ太田市か

太田天神山古墳

(太田天神山古墳 太田市教育委員会PDF)

日本書紀によると、新羅軍と戦った田道は「四邑の人民を虜え、つれて帰ってきた」という。


同じように「四つの邑の漢人」を連行してきた葛城氏が、渡来人を利用して繁栄したように、毛野氏も渡来人とは深い繋がりがあったようだ。


毛野に5世紀後半に築造された高句麗式の「方形積石塚」からは、朝鮮系の土器や装飾品などが出土しているのだという。

(『空白の日本古代史』水谷千秋/2022年)

『空白の日本古代史』水谷千秋/2022年

そんな毛野の成長を怖れたのか、仁徳天皇の時代に毛野国は上と下に分割されてしまった。


ただ、若狭さんによれば、毛野というのはもともと一枚岩とは言い難い地域だったものが、たった一度だけ「大共立体制」をとったのが、太田天神山古墳の築造に際してだったんだそうだ。

それにしても、それはなぜ、太田市なんて下毛野国と隣接する地域に造られたんだろう。


それを、先代の高崎市(西毛)の「浅間山古墳」と太田市(東毛)の「別所茶臼山古墳」が、上毛野国の東西外縁に配置されたように、藤岡市(西毛)の「白石稲荷山古墳」と対応するかたちで、東毛の太田市が選ばれた———と考えるのが、考古学的な思考というものだろう。


ただぼくは、もうちょっと感傷的に、かつては一つの毛野だった下毛野の人たちから近い場所に、往年の毛野の国力を誇示するようなモニュメントを建てて、視覚的に共有する・・・みたいな話も面白いんじゃないかと、思っていたりする。



五世紀の出雲の淤宇宿禰(おうのすくね)とヤマト」につづく