出雲神話①三穂津姫は出雲・美保の神か

 〜丹波の出雲大神宮〜

京都府の出雲大神宮

出雲大神宮の鳥居

京都府亀岡市に鎮座する、丹波国の一の宮「出雲大神宮」。 

京都の「出雲」だ。


誰でも知ってる有名な「出雲大社」は、明治4年までは「杵築大社(杵築宮)」と称していたので、江戸時代までは「出雲社」といえば当社のことを指したようだ。

(参考『大日本国一宮記』)


日本書紀には、こんなエピソードがのっている。


崇神天皇60年(長浜浩明さんの計算では西暦237年ごろ)のこととして、出雲王の「振根(ふるね)」が「四道将軍」の吉備津彦命らの手で誅殺されたあと、ヤマトを怖れた出雲の人たちが「出雲大神」の祭りを中断していたという。


するとなぜか「丹波」の幼児の口を通じて、 「出雲大神」が祭祀の再開を要求してきたそうだ。


んで、これこそが、丹波の出雲大神宮の創始だという説もあれば、いやいや幼児が住んでいた「氷上(丹波市)」は、出雲大神宮の亀岡市からは遠すぎるという説もあって、いろいろ賑やかなようだ。

出雲大神宮の拝殿

出雲大神宮の現在の祭神は「大国主命」と「三穂津姫(ミホツヒメ)命」の二柱。


ただ『大日本国一宮記』には祭神について、「大己貴命の妻、三穂津姫なり。父は高皇産霊尊」とあるので、少なくとも室町時代まではミホツヒメの一座だったようだ。

日本書紀のミホツヒメ

日本神話でミホツヒメが登場するのは、日本書紀の神代第9段(葦原中国の平定)、第二の「一書(あるふみ)」だけ。


「一書」ってのは正伝である本文に対する異伝・参考文のことで、本文より小さな文字で書かれている。

日本書紀一書の例

(一書の例:『古事記と日本書紀「天皇神話」の歴史』神野志隆光 より)

んで、その一書にはこんなことが書いてある。


国譲りを迫ったものの、オオナムチ(大己貴神)に拒絶されたフツヌシ(経津主)とタケミカヅチは、天に戻ってタカミムスビ(高皇産霊尊)に相談して、オオナムチが納得できる条件を持参してきた。


オオナムチには巨大な宮殿が与えられ、出雲臣の祖アメノホヒ(天穂日命)による祭祀を受け、幽界の神事を担当することになったのだ。


続いてフツヌシによる「葦原中国」の平定が行われ、このとき帰順してきた首魁に、オオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)がいた。


タカミムスビは、大物主に娘のミホツヒメを娶せることで忠誠心を確認すると、皇孫の守護神となるべく地上に降ろすのだった・・・。

ミホツヒメはどこに降りたか

美保神社鳥居

ミホツヒメを祀る神社には松江市の「美保神社」もあるが、出雲国風土記を読む限りでは、美保神社の元々の祭神は「ミホススミ」という神さまだったようだ。


日本書紀のミホツヒメは、「皇孫」の守護のために降臨するオオモノヌシに嫁いだんだから、そもそも出雲の美保に現れる理由はない。


一方、「皇孫」の守護を命じられたオオモノヌシだが、ニニギに随って日向の高千穂に降りたとは考えにくい。


ニニギの子孫である神武天皇が、「大和」で娶った「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)」は、オオモノヌシ、もしくはコトシロヌシの娘だと、日本書紀に書いてあるからだ。


当然、オオモノヌシもコトシロヌシも、未婚の娘のいる大和に暮らしていたはずで、降臨した場所も大和と考えるのが無難だと思う。


そうしてみると、話をややこしくしてるのは「皇孫」が誰なのかだ。


もしも「皇孫」が大和に降臨したのなら、ミホツヒメはオオモノヌシと一緒に大和に降臨し、オオモノヌシの娘はその「皇孫」に嫁いだというシンプルな話になるのだ。

日本書紀の「一書」が意味するもの

大神神社鳥居

神話をそのまんま捉えれば矛盾だらけで訳が分からなくなるが、この一書が日本書紀の別の事件を象徴してるのだと考えれば、その意味も見えてくる気がする。


登場する神々を整理してみれば、こう。


○フツヌシといえば、のちにヤマトの軍事氏族として活躍した「物部氏」の祖神。


○フツヌシに平定されたオオモノヌシは、大和・三輪山の「三輪氏」の祖神。


○同じく恭順したコトシロヌシは、大和・葛城の「鴨氏」の祖神。


日本書紀によれば、神武天皇の大和入りを阻もうとするナガスネヒコは、それより前から大和に入っていた物部氏の祖「ニギハヤヒ」によって殺害され、東征は大きく前に進んでいる。


細かい記述はないが、この後、引き続き物部氏が神武天皇のために戦い、多大な貢献をしたことは、その後の物部氏の歴史からも間違いがないところだろう。


そんな物部氏が屈服させた「大和土着の豪族」に、「三輪氏」と「鴨氏」がいたとしたら・・・。


件の一書でタカミムスビがいう「皇孫」とは、「神武天皇」のこと・・・になるんだろう。


オオモノヌシが降臨したのちの、神々による皇居の造営なども、ニニギというより神武天皇の橿原宮の方が、情景的には合っているようにぼくには思える。

オオクニヌシとオオモノヌシ

石上神宮鳥居

ところでこの一書が伝えている最重要ポイントは、しばしば同一神といわれるオオクニヌシ(大己貴神)とオオモノヌシ(大物主)は、全く別の神だ、ってところだろう。


一つの文脈の中で、別の神格として一柱は幽冥界に、もう一柱は皇孫の守護神に、と言うんだから、そりゃー別の神なんだろう。


それに、分霊だとしたら祭祀が違いすぎる。


オオクニヌシには祀ってくれる直接の子孫(氏族)がいないのか、アマテラスの次男「アメノホヒ(天穂日命)」が祭祀を行うことが決められている。


一方、オオモノヌシの方は、崇神天皇の時代、自ら子孫のオオタタネコ(大田田根子)にワレを祀らせよ、と祟りをおこしている。

本来の祭祀氏族は、オオタタネコということだ。


両神が同一神だというのなら、オオクニヌシ(大己貴神)もオオタタネコが祀ればいいんじゃないだろうか。


だいいち、大物主=大国主なら、なんで大物主は「怨霊」として封印されていないのか!!(笑)


それは冗談としても、ミホツヒメが登場する一書を見るかぎり、大国主とオオモノヌシは別の神で、かつ大国主は後裔氏族もいない観念的な神で、オオモノヌシは神武東征の前から大和に土着していた三輪氏の神・・・。


とりあえず今のところ、そういう印象がぼくにはある。


その②「出雲のイザナミ」につづく