東国の皇族と前方後方墳

 〜武渟川別・御諸別・奈良別〜

那須の前方後方墳

那須八幡塚古墳

栃木県那須郡の「那須八幡塚古墳」。

4世紀後半に築造された、墳丘長60.5mの前方後「方」墳だ。

那須では3代目の首長墓なんだそうだ(第一号は3世紀末の駒形大塚古墳)。


『先代旧事本紀』によれば、第12代景行天皇(長浜浩明さんの計算で在位290〜320年)の御世に「建沼河命(武渟川別)」の孫が、初代の那須国造に任命されたという。


「武渟川別(たけぬなかわわけ)」は第8代孝元天皇の皇子「大彦命」の子で、第10代崇神天皇の時代に父と一緒に「四道将軍」に選ばれると、東海地方の攻略を担当した人物。


その後も出雲王の「出雲振根(ふるね)」を滅ぼすなどの武功を立てて、第11代垂仁天皇の御世には「五大夫」の筆頭にあげられた超大物だ。


那須には3C後半、そんなVIPの子孫が一族を挙げて入植してきた。 皇室に繋がる彼らが造ったのが、前方後「方」墳だった事実は興味深い。

東国に赴任した皇族たち

火雷神社

東国に入植した皇族は他にもいる。 

崇神天皇の皇子「豊城入彦(とよきいりひこ)」の三世孫(ひ孫)の「御諸別王(みもろわけ)」も、日本書紀によると景行56年(西暦318年頃)、東国の統治に赴任してきた。


上の写真は、その「御諸別王」が祭祀したと伝わる、群馬県玉村町の「火雷(からい)神社」。

藤本観音山古墳

仁徳天皇(在位410〜428年)の時代に「上・下」に分割される前は、群馬と栃木の県境、今の桐生市、太田市、足利市のあたりが「毛野(けの)国」の中心地だったという。


上は、栃木県足利市に4C中ごろに築造された「藤本観音山古墳」。

 墳丘長117m、周濠を含めた全長は210mというビッグサイズは、タイミング的にいっても御諸別王さんの古墳に違いない!と思わせるが、これも形状は前方後「方」墳だ。

野木神社

分割された「下毛野(しもつけの)国」にも、皇族が国造としてやってきた。 

豊城入彦命の四世孫「奈良別(ならわけ)」さんだ。


 上の写真は赴任してきた奈良別さんが、(兄に皇位を譲って自殺した)仁徳天皇の異母弟「菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)」を祀ったという「野木神社」。

二荒山(ふたあらやま)神社

着任した奈良別さんが、豊城入彦を氏神として祀ったのが、下野国一の宮の「二荒山(ふたあらやま)神社」。


日光にも同名の神社があって参詣してきたが、あちらはお坊さんが開設したというし、立地から見てもこちらが一の宮だろう。

あの「熱田神宮」が、京都からちょっと遠いだけで一の宮を「真清田神社」に譲って、三宮に甘んじた世界の話だ。

塚山古墳

んで、奈良別さんのお墓の候補として見学してきたのが、宇都宮市の「塚山古墳」。 

墳丘長98mの前方後「円」墳で、考古学者の広瀬和雄さんによれば5C前半の築造だ。


ただそれだと奈良別さんが長寿過ぎる気もするが、その時代の宇都宮にはココと3キロ東南の「笹塚古墳」しか100m級が見あたらず、その後は規模縮小したというので、これでOK(?)ということにした。


なお、宇都宮でも那須と同じように、墳墓の文化が何もないところに突如として古墳が現れているそうだ。

そのことから広瀬さんは、東国の在地勢力の経済や文化の発展・成長が、古墳文化の拡大に繋がった・・・というような考え方を否定されている。

それは、そういう経済や文化を持った首長が中間層を伴って移住したことによって、天降り的にもたらされたものだ、というお考えだ。

皇族と前方後方墳

ヤマトタケルの東征を辿った旅で、不思議に思ったことがある。 

それは水戸にしても那須にしても足利にしても、その地に最初に造営された首長墓が前方後「方」墳だったことだ。

みんな元は皇族だった人たちなのに、なんでお墓が「円」より「格下」と見なされる「方」なのか。


それでウィキペディアの「Category:日本の古墳」に載ってる1500ちょいの古墳をチェックして、3C末までに造られた「方」をアバウトにリストアップしてみたのが、上のグーグルマップ。


まず大和、山城、摂津に古い「方」があるのは意外だったが、吉備、近江、美濃も意外といえば意外。

というのも、そこの国造のご先祖さまは、「吉備津彦」や「彦坐王(ひこいます)」、「大碓皇子(おおうす)」といって、こちらも皇族だからだ。


・・・これ、むしろ「格上」だったりはしないんだろうか。


那須の「方」の副葬品は「円」と遜色ないというし、もしかして奥ゆかしい皇族がへりくだって「方」にしたとか、あるいはヤマトが占領地に建てた顕彰碑のようなものとか、そういう説はないんだろうか。


あー、皇族カンケーない埼玉にも3Cの「方」がゴロゴロなのか。 

じゃダメか。

日光

でも今回、自分が古い「定説」に囚われていることが確認できたのは、有り難いことだ。 

「円」と「方」は対立項ではないと、何度聞かされても「方」を"非ヤマト"のように考える思考パターンから、ようやく抜け出せそうな気がしてきた。

古墳時代前期に共存する多彩な墳形の一つとして、前方後方墳をとらえねばならない。

(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄/2019年)

「方」は「狗奴国」の墳形ではないし、非ヤマト連合の墳形でもない。「方」も「円」も、造ったのは同じグループに属する人たちだったということか。