隼人の反乱と「弥五郎どん」

弥五郎どんのいる神社

弥五郎どん祭り

宮崎県、鹿児島県では「弥五郎どん」も見てきた。


奈良時代の720年に「隼人の反乱」を起こしたリーダーの像・・・という説もある巨人像で、都城、日南、曽於の八幡神社の秋祭りに登場し、御神輿のように引かれて町内を練り歩く。


ただ今回は全くの時季外れなので、各地域の施設に展示されているレプリカを見物して、それぞれの八幡神社を参拝しただけで終わった。


神社に飾られた秋祭りの写真を見ると、身長5m近い人形の肩の上に人が乗っていて、きっと当日は凄い熱狂なんだろう。

いつかはこの目で見たいもんだ。

都城市「的野正八幡宮」の弥五郎どん
的野正八幡宮

都城市「的野正八幡宮」の弥五郎どん。長男なんだとか。

田ノ上八幡神社
日南市「田ノ上八幡神社」の弥五郎どん

日南市「田ノ上八幡神社」の弥五郎どん。三男。

曽於市「岩川八幡神社」の弥五郎どん
岩川八幡神社

曽於市「岩川八幡神社」の弥五郎どん。次男。

マンガ『ヤマタイカ』の弥五郎どん

『ヤマタイカ』の弥五郎どん

ところでぼくらの愛読書に『ヤマタイカ』(星野之宣/1986〜91年)というマンガがある。


ストーリーとかの紹介はぜんぶ省くが、『ヤマタイカ』において、隼人は特別な意味をもつ古代部族だ。

それは『ヤマタイカ』では隼人こそが、「火の民族」として日本列島に先住していた縄文人の生き残りだ、 とされるからだ。


しかし弥生時代に入り、大陸から流入してきた渡来人に押されて、縄文系は辺境へ追いやられた。

この時、北に追われたのが蝦夷とアイヌで、南に追われたのが熊襲と隼人・・・というのが『ヤマタイカ』の古代史観だ。


だがどうだろう。

『ヤマタイカ』は娯楽マンガなので、歴史を面白おかしく、分かりやすくしていることは確かだ。


でも隼人や蝦夷が「追い散らされ」「欺かれ」「土地を奪われ」「同化させられて」とあおられると、まるでヤマトはどこぞの某国のような、人権無視のファシズム国家のように聞こえてくる。


だがホントにヤマトは、某国のような侵略、弾圧、民族浄化などを、隼人に強いたんだろうか。


「日本書紀」によると、ヤマトがはじめて九州に出張ったのは、第12代景行天皇 の「行幸」だ。


ヤマトタケルの父親として有名な景行天皇の在位は、長浜浩明さんの計算だと西暦290〜320年。

ざっくり西暦296年ごろに「熊襲」が背いて朝貢しなかったことが、天皇巡幸のきっかけだった。

隼人と前方後円墳

青塚古墳(愛知県)

さて、ヤマトのシンボルといえば「前方後円墳」だが、九州での第1号は、大分県宇佐市の「赤塚古墳」だそうだ。築造年代は3世紀末。


ちょうど景行天皇が行幸した頃で、このとき天皇に協力した「神夏磯媛(かんなつそひめ)」なる首領が、褒美として前方後円墳築造の権利を与えられたとすれば、だいたい時期的な辻褄は合う。


宇佐に続くのが、宮崎市の「生目古墳群」。 

西暦300年前後から造営が始まり、九州最大の古墳群へと発展する。


日向国は景行天皇が現地妻とのあいだに子供をもうけ、6年(日本書紀)も暮らしていたという土地だ。その期間にヤマトの文化が根付いていったとしても、不思議ではないタイミングだろう。


そしてその勢いは天皇が去っても収まらず、志布志から鹿屋にいたる大隅半島の平地に、 大規模な古墳群が広がっていった。


肝付町の「塚崎古墳群」は4世紀から5世紀の造営。

4世紀末には九州第3位の規模を誇る、「唐仁大塚古墳」が登場。


同じ頃、規模は小さいが、薩摩半島の南さつま市でも円墳が作られ(奥山古墳)、西暦400年前後には日本最南端の古墳「弥次ヶ湯古墳」が指宿市に作られている。


じわじわと広がっていくヤマトの文化・・・。


ためしにGoogleマップで「古墳」を検索してみたところ、地図はこうなった。

むむむ・・・「隼人の反乱」の舞台となった霧島市の国分あたりは、もう丸っきり包囲されてる状態だ。可愛そうな隼人族というより、道路や空港の建設の邪魔をする、あの厄介な人たちにも見えてくる。


いや、もちろん最後は強大な軍事力が行使されて、隼人は自主権を失った。そしてまた、あらゆる「侵略」は否定されるべきものだろう。


でも、景行天皇の「行幸」から「反乱」までは、実に400年もの年月が経過している。外堀も完全に埋められている。


これを現代某国の周辺国への侵略と同一視するのは、ぼくには何だかヤマトが気の毒な気もしてくるのだった。