『出雲という思想』原武史

〜明治の祭神論争のオオクニヌシ〜

東京大神宮

JR飯田橋駅から、徒歩5分の立地に鎮座する「東京大神宮」。 

自分で出かけるヒマがなかったので、近くに職場がある仲間に参詣してきてもらった。


こちらは明治13年、東京日比谷の「神道事務局」のなかに、伊勢神宮の遙拝所として発足した。

当時の祭神は、アマテラスと造化三神。


明治14年には「日比谷大神宮」と称されるようになったが、大正12年の関東大震災で焼失。昭和3年に「飯田橋大神宮」として再建され、戦後に「東京大神宮」と改称し、現在にいたる。

東京大神宮拝殿

そもそもオオクニヌシを「死者の国の王」だと主張したのは他でもない、出雲国造その人だった。


明治に入り、新体制における宗教のあり方が議論されていた明治13年、日比谷の「神道事務局」の神殿に、アマテラスと並べてオオクニヌシを祀れと要求したのは、第80代出雲国造の千家尊福(たかとみ)さんだった。


千家さんは、アマテラスの世界には穢れを伴う死者の余地がないので、フルスペックの宗教としては成立しない。ならばオオクニヌシこそが「 幽冥界」の主宰神で、人間の死後の魂の救済を司る神なんだから、アマテラスとセットにすればいいと主張した。


もちろん伊勢神宮はこれを拒否した。千家さんの主張を認めれば、死後の「天皇」もオオクニヌシの支配を受けることになるからだ。

この時代には、昭和で死に絶えた本物の「右翼」が存在したので、千家さんの暗殺騒動などもあったそうだ。

出雲という思想

当時の「祭神論争」の顛末は『出雲という思想』(原武史/1996)に詳しいが、結局は明治14年に天皇の「勅裁」というかたちで、千家さんの主張は退けられた。

この後アマテラスの世界は、人間の死後には関与しない「国家神道」に発展していくことになる。


んで、こうした経緯から分かることは、出雲が「死者の国」でオオクニヌシが「幽冥界の王」だということは、歴史に隠された秘密でも暗号でも何でもなくて、国造さん自身が誇り、世に広めた出雲の有りようだということだ。


だから祭神論争に敗れ、国家神道から排除されたオオクニヌシも、怨霊になって皇室に祟ったりはしなかった(笑)。


それどころか反対に、オオクニヌシは次第に「護国の神」に変質していったようだ。

この時代の開拓地に建てられた「樺太神社」や「台湾神社」には、相棒のスクナヒコナと一緒にオオクニヌシ(大國魂命+大己貴命)が祀られたのだった。

出雲大社相模分祠

それで改めて、出雲について言及のある8世紀の文書を眺めてみたところ、その時代のオオクニヌシも、どうやら「護国の神」として構想されたように思えてきた。


「出雲国造神賀詞」にも 「日本書紀」「古事記」にも、オオクニヌシ、もしくはその分身、またはその御子神を、皇室の守護神として設定する箇所がいずれにもあるからだ。


オオクニヌシは千年の時を超えて、一周回って元々の姿に落ち着いた。 

そんなところか。


写真は神奈川県秦野市の「出雲大社相模分祠」で、祭神論争に敗れた千家さんが創設した教派神道「出雲大社教」の「分祠」のひとつ。

こちらは秋晴れの日を選んで、自分で参拝してきた。


地方の一の宮だと言われても不思議じゃない立派な神社で、こういうものが日本中に14社もあって、もうちょっと小規模な「分院」だと30社近いというんだから、スゲーや出雲。