この「日高見国」だが、日本書紀による限り、常陸国の「北東」にあったように読める(蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮)。
それを仙台以北だと考えると単なる「北」になってしまうので、ぼくはかろうじて「東」のベクトルが残る福島県いわき市あたりに、ヤマトタケルが東征した当時の「日高見国」はあったと思っている。
なので、いわき市の住吉神社の創建が、東方を視察した際に武内宿禰が始めた祀り―――という縁起には説得力を感じている。
ちなみに東北地方で最も古い古墳は、北陸といわきを結ぶ「磐越道」のまんなか辺の、会津地方に築かれた「杵ガ森古墳」という45mの前方後円墳で、その築造年代は、武内宿禰がそこらを巡った西暦300年前後のことだという。
とりあえず会津あたりまではヤマトの勢力圏で、武内宿禰も安全に通行できたようだという話。
ところで磐越道よりも遥かに北に行って、もうすぐ仙台という宮城県南部にも、ヤマトタケルを祀る神社があった。
5キロほどの間隔で二社が鎮座していて、いずれも延喜式神名帳では格が高いとされる「名神大社」だ(2025年8月参詣)。
まず上の写真は、刈田郡蔵王町でヤマトタケルを祀る「刈田嶺神社」。
社伝によれば、ヤマトタケルが東征で陣を置いたのが創建の縁起だという。が、ヤマトタケルが「中通り」を北上したという話はどこにもない。
それで『日本の神々 神社と聖地 12 東北・北海道』など開いてみると、古来この地には強烈な「白鳥信仰」があって、それが「いつしか」ヤマトタケルの白鳥伝説と結びついたんだそうだ。
この両郡の住民は、むかしは、白鳥の羽が地面に落ちていても、じかに皮膚に触れると、みみず脹れのように赤く脹れあがるというので、折りとった木の小枝か箸で拾うかした。
他所の者が雉肉をごちそうしておいて、そのあとで、今のは白鳥の肉だと言おうものなら、青くなって吐くやら腹痛を起こすやらで大騒ぎになった。
こうした熱烈な白鳥崇拝のゆきつく果てに、刈田郡の白石や柴田郡の船岡では、明治初年に、痛ましい殺傷事件を再三ひき起こしている。
(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)
刈田嶺神社の本殿の裏手には、1673〜1828年の間に建てられたという5基の「白鳥供養碑」があった。
今はどうだかわからないが、『日本の神々』が編纂された1985年当時だと、毎年50羽ほどの白鳥がこの地に飛来していて、それらの羽根や死骸はこの供養碑の近くに埋める習わしになっていたのだとか。
こちらはお隣の柴田郡で、ヤマトタケルと用明天皇を祀る「大高山神社」。いきなり聖徳太子のお父さんの名前が出てきて面食らうが、このあたりには「用明天皇版」の白鳥伝説もあるそうだ。
要はヤマトタケルを用明天皇に入れ替えたもので、白鳥が胎内に入る夢を見て出産したお妃が当地に残されて、生まれた御子が白鳥に変身して用明天皇のもとに飛んでいくというストーリーだ。
主役がなぜ用明天皇なのかは、良くわからない。
上で引用した民俗学者・谷川健一さんの『白鳥伝説』によれば、日本人にとって白鳥とは「霊魂のかたどり」を意味するものだという。目に見える霊魂ってかんじだろうか。
興味深いことに、日本人のルーツの一つとして知られるシベリアのバイカル湖の周囲に住む「ブリヤート人」も、強烈な白鳥信仰を持っているらしい。捕らえたり殺したりは当然タブーで、羽毛にさわったり、後を追いかけただけでも病気になると信じられているんだそうだ。
谷川さんは、そうした白鳥信仰の根源には、白鳥を自分たちの「始祖」とみなす観念があると書かれている。だとすると、かつての宮城県南部の人たちも、遠いシベリアの人たちと同じような観念を持っていたんだろうか。
その地に白鳥信仰があるかどうかは不明だが、白鳥の飛来地は山形県の最上川沿いにも広がっているという。それでぼくらも山形まで足を伸ばして、山形市の県立博物館で見学してきたのが、上の白鳥の剥製。
ところで行ってみて初めて気がついたことだが、山形県の中心部である山形市や米沢市を含む盆地一帯には、なぜか式内社が一つもない。
出羽国の式内社は、みな日本海側の酒田とか鶴岡に分布しているのだった。
ぼくらは式内社ってのは、延喜式神名帳が編まれた平安時代の初期に、そこに人びとの営みがあった証し―――だとずーっと思ってきたので、それじゃその頃の山形市や米沢市は、無人の荒野だったことになるんだろうか?
もちろんそんな訳はなくて、式内社はなくても、もっと古いヤマト式の古墳がそこにあった。上の写真は廃業したリゾート施設「ハイジアパーク南陽」の敷地内にある「蒲生田山古墳群」の一号墳。
この一号墳は横穴式の円墳で新しいものだが、丘を登ると4世紀前半の終わり頃に築造されたという前方後方墳と前方後円墳が合わせて3基ある(草ボウボウで見えない)。
いずれも全長は29mと小ぶりなもので、丘陵に沿って並べて作られている。あまり他では見かけないスタイルのような気がするが、この地域のオリジナルなんだろうか。
そういえば朝鮮の「伽耶」の墳墓群が、丘陵に沿って並んで築造されていたような記憶がある。
が、蒲生田山古墳群からは3世紀の「庄内式」の土器も出土しているそうなので、やはり朝鮮よりヤマトとのつながりで考えるべき話なんだろう。
詳しくは「蒲生田山古墳群・総合公園内遺跡群発掘調査報告書」のPDFにて
さて、つづいて4世紀中頃の築造といわれるのが、置賜郡川西町の「天神森古墳」。バチ型の前方部と「周濠」を備えた本格的な前方後方墳だ(75m)。
ただちょっと不思議に思ったのが、米沢盆地の古墳文化は、すぐ南の会津地方から北上してきたと考えられているのに、その会津では前方後方墳ではなく、前方後円墳が先行していたこと。
会津で真っ先につくられたのは「杵ガ森古墳」「臼ガ森古墳」の二基の前方後円墳で、「方」はその後、「円」と並行して造営されるようになっている。
だが山形では「方」が先行してから「円」ができているので、その理由が謎だ。なぜ会津に倣わなかったんだろうか。
んで最後に見物してきたのが、山形県では最大、東北では第7位になる「稲荷森古墳」。こちらは4世紀後葉に築造された墳丘長96mの前方後円墳だ。
稲荷森古墳の特徴としては、前方部が開かない「柄鏡型」という墳丘の形がある。
奈良だと「柄鏡型」は3C末〜4C初頭の「桜井茶臼山古墳」と「メスリ山古墳」が有名だが、それらに「周濠」がない点も稲荷森古墳と同じだ。柄鏡型のルールなんだろうか。
考古学者の広瀬和雄さんによれば、奈良の柄鏡型は「大王とほぼ同格だが、それに準ずる親縁的な有力首長」のお墓とのこと。
だが、なぜこの地域では唯一無二の前方後円墳である「稲荷森古墳」が、柄鏡型の墳丘を採用しているのか。これまた良くわからない、山形県の不思議だった。
【関連記事】桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者は誰だ
なお、山形県の古墳の年代観などは、山形県うきたむ風土記の丘考古資料館が2005年に発行した『第13回企画展 古墳ができたころ』(¥400)を参考にしました。
下に4世紀の会津と山形の古墳の変遷図を貼っておきますので、興味のある方はご覧ください。
・・・そういえばあの日、稲荷森古墳から見えたこんもりとした森には昔から古墳だという説があって、もしそうなら東北でも最大級では!!と一時は騒がれたことがあったそうだ。
が、残念ながら2022年の調査で、すでに古墳ではないことが判明しているのだとか。現在は「長岡南森遺跡」という古代祭祀場の跡として、大切に保存されているそうだ。
(長岡南森遺跡)
※1980年代には、栃木県宇都宮市に「雷電山古墳」なる墳丘長220mの前方後円墳が存在したと考えられていた時期があって、それが本当なら今、東国最大と言われる群馬県太田市の「太田天神山古墳」(210m)を若干超えていたことになる。
その後の調査で巨大古墳ではないことが判明したが、1985年発刊の『日本の神々 神社と聖地11 関東』では「雷電山古墳」の存在を根拠に上毛野と下毛野の歴史が論じられていたりして、古代史の怖さと面白さを同時に味わうことができる案件だ。
ちなみに、現時点で栃木県最大とされる古墳は栃木市の「吾妻古墳」で、墳丘長は128mだ。
(出典『東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』辻秀人)
(出典『第13回企画展 古墳ができたころ』)