安芸「埃宮」と吉備「高島宮」の神武天皇

〜稲作・鉄器・灌漑技術〜

「埃宮」多家神社

厳島神社大鳥居(改修中

神武天皇ご東征の聖地巡りで山陽方面に出かけてきたのは、2021年春のこと。

なお、安芸国一の宮「厳島神社」の大鳥居は改修中で、めっちゃ残念だった(上の写真…トホホ)。


さて、日向を発した神武天皇率いる皇軍は、途中、宇佐と筑紫に立ち寄りながら、安芸(広島)に到着した。

日本書紀によれば、神武天皇はここで2ヶ月チョイを過ごしたらしいが、滞在地とされる 「埃宮(えのみや)」に現在鎮座しているのが、府中町の「多家(たけ)神社」だ。

多家神社

ぼくらは通りすがりの関東人なのでピンと来なかったが、神武天皇の時代の広島湾は平野の奥深くまで海が入り込んでいて、多家神社が鎮座する丘などは湾内に突き出す岬だったそうだ。

なるほど、今では海岸まで5kmほど離れてるが、当時の神武天皇は船団でやってきたわけで、当たり前と言えば当たり前か。

神武天皇はたしかに存在した

入念な取材で、そんな面白くてタメになるエピソードが満載されている本が、『 神武天皇はたしかに存在した』(産経新聞取材班/2016年)だ。

神社の社伝などにはでてこない、ローカルな歴史や古老の伝承を拾い上げて、生き生きとした神武天皇像を描き出している名著だ。


ただ、本では神武東征の副次的な意義として「稲作」「鉄器」「灌漑技術」という三つの文明・文化の伝播をうっすらと主張しているが、その点はちょっとFACTにあっていないとぼくは思う。

津島遺跡の水田

津島遺跡

まず「稲作」だが、岡山市北区の「津島遺跡」からは、2300年前の水田集落が発掘されている。

ぼくらは長浜浩明さんの計算が一番合理的だと考えて、神武天皇の即位は紀元前70年ということで承知しているんだが、その計算からすれば、2300年前だと神武東征より200年以上前から、岡山には水田が広がっていたことになる。


これは岡山に限った話ではなくて、神武天皇が治めることになる奈良盆地南部でも、2400年前の弥生水田跡「中西遺跡」(御所市)が発掘済みだ。

そちらは弥生前期の水田跡として は、国内最大規模を誇るのだという。


また「鉄器」についても、岡山では弥生時代中期前半(前300年前後)には出土が始まっていて、中期後半にはかなりの量に達している。

神武天皇が訪れた頃の岡山で、鉄器は貴重ではあるが、すでに実用化されてる道具だったわけで、それだけではアドバンテージにはならんだろうなぁ、とぼくは思う。

(参考書『吉備の弥生時代』岡山大学/2016年)

吉備の弥生時代

んじゃ、東征における神武天皇の優位性はどこに?と問われれば、今は「物部氏がヒントかも?」と言うぐらいしかないんだが...。


【関連記事】紀元前74年ごろ、神武天皇、北九州(筑紫)へ

吉備の「高島宮」

高嶋神社遙拝所
高島神社

日本書紀によれば、吉備国での神武天皇の行館(かりのみや)を「高島宮」といい、天皇はそこに三年のあいだ逗留して軍備を整えたという。


言い回しからすれば、神武天皇が吉備に何かを伝播したというよりも、吉備には天皇が長期滞在するメリットがあったように聞こえるが、それはさておき、「高島宮」には候補が4箇所ある。


そのうち、もっとも有力だと言われ、ぼくらも同意するのは岡山市中区の「高島山」説なんだが、生憎そちらには簡単な碑と祠しかない。

それじゃーつまらん、と観光も重視するぼくらが訪問したのは、児島湾に浮かぶ無人島に鎮座する「高島神社」・・・を対岸から拝む「高嶋神社遙拝所」(南区宮浦)だ。


潮風の気持ちいい風光明媚な場所だったが、ぼくが「高島宮」はここじゃないな…と思うのは、神武天皇が逗留した頃の岡山平野は今のJR岡山駅まで海が来ていたわけで、南区宮浦じゃ海っぺり過ぎて三年暮らすには落ち着かない(てか海中?)だろうと思うからだ(古代の地図はこちらに)。


なお、対岸からスマホで神社を写すのはとても無理で、500ミリ以上の望遠レンズが必携だ(上の写真はコンデジなのでボケボケだ)。

珍彦(うずひこ)を祀る神社

神前神社
亀石神社

日向を発った神武天皇が、最初に出会った旅の仲間が、漁人(あま)の「珍彦(うづひこ)」。


豊予海峡で釣りをしていた珍彦は、天皇に請われるままに水先案内人を務め、大和入りでは計略の実働部隊、さらには作戦参謀として活躍した。

功績によって初代「 倭(やまと)国造」に就任。


上の写真、左(スマホだと上)は珍彦を祀る「神前(かむさき)神社」。

右(スマホだと下)は、珍彦が乗ったカメの化石だとされる巨石を祀る「亀石神社」。

いずれも岡山市東区に鎮座。

イツセを祀る安仁神社

安仁神社

さらに東にレンタカーを走らせて、神武天皇のお兄さん「五瀬命(イツセ)」を祀る「安仁(あに)神社」へ。


大和入りの戦闘で矢傷を受け、和歌山で没したイツセは、東征路の数年をこの地に滞在したと社伝にはある・・・っていう割りにはスゲー内陸だな!と思ったら、ここもまた、昔は児島湾の入り江の奥に位置したそうだ。

その証拠に、近隣には貝塚などもあるんだとか。


というわけで、今回は山陽道の神武東征にまつわる史跡を回ってきたが、上掲の『神武天皇はたしかに存在した』(産経)には他にも、山口県周南市の「神上神社」、広島県呉市の「亀山神社」、愛媛県今治市の「大山祇神社」、広島県尾道市の「斎島神社」なんかが紹介されている。

また別の機会に訪れたいもんだ。

ついでではないが、仲間が敬愛する棋士、村山聖九段の墓参りにも行ってきた。

涼風の吹き下ろす山麓にたたずみ、横には清流もあるような、いい感じの霊園だった。


紀元前70年頃、神武天皇の即位 (古事記と日本書紀のニギハヤヒ)につづく