甲斐と武蔵のヤマトタケル神社
〜甲斐の前方後方墳〜
山梨県のヤマトタケル神社
2022年春に参詣した、山梨県甲府市の「酒折宮」。
日本書紀によれば、蝦夷を平定したヤマトタケルは「日高見国」から帰還して、常陸(新治・筑波)をへて甲斐に至ったという。
甲斐での行宮がこちらの酒折宮で、ここでタケルは副将の大伴武日に「靭部(ゆげいのとものお)」を与えたという。
井上光貞『日本書紀』の解説からすると、これは後に大伴氏が、宮廷の諸門の警衛を統率するようになった由来について、説明しているようだ。
西八代郡の「弓削神社」。
社伝によると、第11代垂仁天皇の時代に、阿倍、和珥、中臣、物部と並んで「五大夫」に重用された大伴武日だが、「靭部」を賜った後はそのまま甲斐に留まったのだという。こちらはその居館の跡に、鎮座するという神社だ。
酒折宮に駐留したヤマトタケルが、"この地が甲斐の中心であることから、諸所の地神を大国魂命として祀った"と社伝に残る「玉諸神社」。
「大国魂」は歴史のどこかでオオクニヌシに入れ替えられたケースが多いと聞くが、こちらも祭神が大己貴命だった時期があるそうだ。
境内に巨石がゴロゴロしてる、不思議な「山梨岡神社」(山梨市)。
ヤマトタケル東征の折の創祠と伝わるが、祭神は熊野権現だったりして、あまり一貫性はない。
名勝「昇仙峡」と一体化した、テーマパークのような「金櫻神社」。
ぼくらが参詣したのは里宮で、本宮は金峰山の山頂に鎮座する「御像石」(いまは五丈岩)。
そこはヤマトタケルが東征のとき、国家鎮護のために鎧を納めた霊地だそうで、タケルは甲斐国造の「塩海足尼(しおみすくね)」に社伝の造営を命じて祀らせたのだという。
笛吹市でオオモノヌシ(大物主神)を祀る甲斐二宮の「美和神社」。
祭神は景行天皇の御宇に、ヤマトタケルの命によって甲斐国造の「塩海足尼」が、大和の大神神社から勧請したという。
・・・といったあたりが、今回ぼくらが回ってきたヤマトタケル由縁の神社なんだが、社伝にちらほら出てくる甲斐国造の「塩海スクネ」が興味深い。
(甲斐一の宮・浅間神社)
国造に詳しい「先代旧事本紀」によると、塩海スクネは第12代景行天皇の御世に初代の甲斐国造に就任した人物で、「狭穂彦王(さほひこ)」という皇族の4世孫にあたるのだという。
狭穂彦王は妹である皇后に、夫の垂仁天皇の暗殺を持ちかけて皇位の簒奪を図ったが、謀叛が露見して兵を向けられると、炎上する城内で妹と心中したというド派手な人物だ。
何とも複雑な愛憎劇だが、子孫がいるところを見ると、垂仁天皇は反逆者の罪を許されたようだ。
埼玉県のヤマトタケル神社
日本書紀によると、甲斐の「酒折宮」を発ったヤマトタケルは、北方の武蔵・上野をめぐって「碓日坂」に至ったという。
山梨県から雁坂峠をこえて秩父盆地に入り、群馬方面に抜けるルートには、ヤマトタケルが創建に関与したと伝わる神社が連なっている。
そのトップバッターが、秩父市の山奥でイザナギ・イザナミを祀る「三峯(みつみね)神社」だ。
三峯神社の縁起によれば、雁坂峠で道に迷ったヤマトタケルの前に山犬が現れて、一行を当地に導いたのだという。
山犬信仰は三峯神社を起点に荒川の流れに沿って、秩父盆地一帯に分布しているんだそうだ(『日本の神々・関東』)。
荒川のラインくだりで知られる長瀞町で、神武天皇を祀る「宝登山(ほどさん)神社」にも山犬の伝説があった。
それは東征の折、山頂で神武天皇を遙拝していたヤマトタケルがふいの山火事に襲われたとき、巨大な山犬が現れて火を鎮め、ヤマトタケルを救出したというものだ。
これら、ヤマトタケルを助けた山犬が意味するものは謎のようだが、宗像教授なら、荒川で砂鉄を採取していた製鉄集団である!とか言いそうな話か。
秩父郡内に、式内社の論社が五社もある「椋(むく)神社」。こちらに共通するのは、ヤマトタケルを導いたのは「光る矛」だという点だ。
ぼくらが参詣した皆野町の椋神社では、矛が導いた先に現れた神は「猿田彦」だとするが、「大己貴命」だとする論社もある。
「光る矛」が意味するものは、もちろん謎だ。
甲斐の前方後方墳
(出典:小林健二 2013「甲府盆地から見たヤマト(2)」より抜粋)
ところで酒折宮は「連歌」発祥の地とも言われていて、タケルの歌に「御火焚の者」が見事な歌を返して厚く褒美を与えられたと、日本書紀に書いてある。
この火の番人は古事記では「老人」だとされ、褒美に「東(あづま)の国造の地位」を得たという。
この「老人」には昔から、甲斐国造の塩海スクネだという説がある。
ヤマトタケルの東征は、長浜浩明さんの計算だと西暦310〜315年頃のこと。
塩海スクネは「老人」なだけに、 その後ほどなく亡くなったとすると、ひとつ面白い事実と重なってくる。
それまで弥生時代の「方形周溝墓」を作り続けていた甲斐で、はじめて作られた前方後方墳「小平沢古墳」の築造が、丁度その頃になるのだ。
ヒコイマス系?国造が多い近江から美濃は、前方後「方」墳の故郷だという。
そこらから赴任してきたと思われる塩海スクネが、自分のお墓に前方後方墳を選んだのだとすれば、文献(国造本紀)と考古学が一致したような感じになって、誠に興味深いと思うんだが、どうだろう。
なお、甲斐の前方後「方」墳は「小平沢古墳」の一基だけで、その後は前方後「円」墳にシフトしていったという展開は、尾張の南部などと同じパターンを踏んでいる。
弥生土器なんかも、甲斐は東海の影響が大きいんだそうだ。
(『邪馬台国時代の関東』2015年)