美保の神はコトシロヌシか、ミホススミか
(古層の出雲神話)
三嶋大社のコトシロヌシ
2022年秋に参詣した、静岡県三島市の伊豆国一の宮、官幣大社の「三嶋大社」。
こちらの現在の祭神は、「大山祇命」と「事代主神」だ。
このうちオオヤマツミについては、室町時代の『大日本一宮記』にも「三嶋大明神」の祭神として挙げられていて、問題はない(ちなみに木花開耶姫の親神だ)。
一方、コトシロヌシの方は、かなり最近になってから設定された祭神のようだ。
江戸後期の国学者、平田篤胤が言い出しっぺで支持を集め、明治6年にオオヤマツミから主祭神の座を奪ったものの、オオヤマツミ支持者の巻き返しもあって、戦後にいまの二柱に落ち着いたという話だ。
『日本の神々 10 東海』によれば、現在の三嶋大社では事代主神が「えびす神」として、地元の漁師の崇敬を集めているそうだが、現在の祭神から元来の信仰を考えるのは、つくづくリスキーな行為だと痛感させられる事例だ(もちろん、現在の信仰そのものを否定するものではない)。
コトシロヌシとミホススミ
コトシロヌシといえば、記紀の「国譲り神話」でオオクニヌシの子として登場し、出雲の三穂(美保)でヤマトの使者に降伏し、いまは松江市の「美保神社」などで祀られている神だ。
ところがこのコトシロヌシ、記紀と同時代の733年に、当の出雲の伝承を集めて編纂された「出雲国風土記」には全く出てこない。
「出雲国風土記」は、美保で祀られているオオクニヌシの子は「ミホススミ(御穂須須美命)」だといい、そもそも「美保の郷」という地名はミホススミの名から取られたものだといっている。
(略)したがって、美保郷の地名を負う美保社の祭神が、この御穂須須美命と無縁であるはずがない。
けだし、風土記のころにはもっぱらこの郷の祖神たる御穂須須美命をのみ祭神としていたのであろう。
(「美保神社」『日本の神々 神社と聖地 7山陰』1985年)
それじゃ、コトシロヌシは一体どこの神さまなのか。
よく知られるように、数ある風土記の中でも「出雲国風土記」だけは、中央から派遣された国司ではなく、土着の出雲国造その人が編纂したものだといわれている。
そしてその出雲国造が、風土記とだいたい同じ時代に奏上した寿詞(祝詞)に『出雲国造神賀詞(かんよごと)』がある。
その「神賀詞」によれば、コトシロヌシは皇室の守護神の一人として、「大倭国」の「宇奈提(うなて)」に鎮座する神だという。
宇奈提は、奈良県橿原市の「河俣神社」周辺を指すらしい。
んでこの時、父の大穴持(オオクニヌシ)は「倭の大物主なる櫛厳玉命」という名前で「大御和(大三輪)」に鎮座。
子の「阿遅須伎高孫根命(アジスキタカヒコネ)」は「葛木の鴨」に鎮座。
同じく子の「賀夜奈流美命(カヤナルミ)」は「飛鳥」に鎮座して、この四神が描く菱形状の結界の中心に、当時の首都の「藤原京」がある・・・という説は、昔からよく知られた話だそうだ。
(図18 出雲の神々貢置図『邪馬台国と地域王国』門脇禎二/2008年)
ところで、この「出雲国造神賀詞」の世界観は、オオクニヌシ=オオモノヌシという点では、日本書紀の世界観とかなり近いものがある。
一方、オオクニヌシとオオモノヌシを全く別々の神だとする古事記とは、全く合致するものがない。
ぼくなどはそれだけで、古事記は日本書紀より相当に新しいんだろうな・・・と思ってしまうわけだが、いやいや古事記こそが日本神話の「古層」を語り継いでおるのじゃよ、とおっしゃる学者さんもいる。
三浦佑之さんだ。
三浦佑之さんの説
三浦さんの基本的な立ち位置は、古事記の「序文偽書説」にある。
序文は「平安初期に偽造」されたもので、古事記の成立が712年かどうかは定かでない、という立場だ。
だがそれでも、古事記の神話には「古層」が語られているとして、三浦さんが挙げるのが 「比喩の古層性」「天津麻羅の象徴性」「(女系)系譜の古層性」などだが、正直それらの議論は専門的すぎて、ぼくら一般人には敷居が高かった。
(『古事記のひみつ』2007年)
それでもう少し入門者向けの本をと読んだのが『古事記を読みなおす』(2010年)で、ここにはモロに出雲神話への言及があった。
三浦さんによると、古事記には日本書紀には出てこない山陰から北陸にかけてを舞台にした神話群があり、そこでは「日本海文化圏」という「古層」の神話が語られているのだ、だから古事記は古いのだ、ということだ。
一方で日本書紀は、「出雲神話」としてまとまっている体系の、大半を「不要」だとしてカットしてしまったのだと三浦さんは言う。
古事記と日本書紀の、こうした歴史認識の違いをもとに考えると、律令制古代国家の正史であろうとする日本書紀にとって、古事記的な「出雲」は、過去の、棄てられた世界であったということになるはずです。
(中略)出雲は、けっして大和朝廷と並べられる、あるいは比肩しうる世界ではなく、ましてや、過去においてもヤマトを凌ぐ世界であってはならないのです。
(「第二章 出雲の神々の物語」)
出雲と無縁のタケミナカタ
三嶋大社の前に参詣した、静岡県長泉町の「諏訪神社」。
むろん、祭神にタケミナカタを祀る。
諏訪神社はいたってフツーに、日本中のどこでも見かける村の鎮守で、1位の新潟には1522社、2位の長野にも1112 社も諏訪神社があるそうだ。
古事記では、タケミナカタは大国主神の子でコトシロヌシの弟だとして登場し、ヤマトの使者との力比べに敗れて諏訪まで遁走したことになっているが、その名前は「日本書紀」にも「出雲国風土記」にも「出雲国造神賀詞」にも出てこない。
また、出雲には式内社が187座あるが、タケミナカタを祀る式内社も一つもない。
この、どう考えても出雲とは無縁のタケミナカタが、元々の「出雲神話」という体系からカットされた存在だとは、ぼくにはちょっと受け容れがたい。
反対に、何者かが机上で出雲と諏訪を結びつけた結果だと捉えた方が、話の流れが素直なような気がする。
それにそもそも日本書紀がカットしたという「出雲神話」のパーツだって、「越」のヌナカワヒメ、「因幡」の白ウサギ、「伯耆」の赤イノシシ、「木国(紀国)」のオオヤビコ、そして「根の国」のスサノオと、みな「出雲以外」が舞台になってるわけで、ヤマトから見てそれが「出雲神話」と言えるのかどうか、ビミョーなかんじもある。
一説によると、古事記はもともと蘇我氏の「帝紀」が原型だったという話がある(古事記には偽書説があるらしい)。
6世紀後半の出雲で、その蘇我氏と結びついて「大陸風飾り大刀」を振り回していたのが、出雲国造家だ。
出雲国造家がネタ元だから、古事記には「出雲神話」が多く含まれることになった・・・ってのは話が単純すぎるだろうか。
「美保神社のコトシロヌシは出雲の神か」につづく