三角縁神獣鏡は国産か

〜黒塚古墳、室宮山古墳〜

三角縁神獣鏡はどこで製作されたのか

三角縁神獣鏡「舶載」と「仿製」

1年ほど前に、山梨県立考古学博物館で見物してきた「三角縁神獣鏡」。


左の文様が精緻なものを中国製の「舶載(はくさい)鏡」、右のブサイクなものを国産の「仿製(ぼうせい)鏡」と区別するそうだが、その根拠は「見た目」だけというから驚きだ。


それには事情があって、三角縁神獣鏡はこれまで日本では600枚以上も出土した最もポピュラーな銅鏡なんだが、どういうわけか中国では一枚も見つかっておらず、他の銅鏡のように内外の比較検討ができないんだそうだ。


ただ、確かに弥生時代の日本には見事な「銅鐸」を作る技術が認められるものの、それと中国鏡のエッセンスはまったくの別物なので、三角縁神獣鏡はあくまで中国人の鏡職人が、主に「魏」の系統を引いて製作した、という点については疑いがないらしい。


問題は、それが「どこで」製作されたのかだ。

三角縁神獣鏡

場所が問題というのは、それによって「邪馬台国畿内説(大和説)」が、その大きな拠り所の一つを失ってしまうから。


というのも三角縁神獣鏡は、「魏志倭人伝」で魏の皇帝が邪馬台国の卑弥呼に与えたという「銅鏡百枚」の候補とされ、邪馬台国を引き継いだ大和政権(ヤマト王権)の手で「威信財」として各地に配布された。

・・・という説が、昭和の頃は「定説」とされていたわけで、もしもそれが「国産」ということになれば、それは「ヤマトの鏡」ではあるが「卑弥呼の鏡」とは言えない、という状況が発生してしまうことになって、ひいては邪馬台国とヤマト王権の連続性さえ危ういものになるという・・・。

「卑弥呼の鏡」

三角縁神獣鏡は「国産」か

さて、一番上の写真のとおりで、左の「舶載」と右の「仿製」ではテレスドンとデットンぐらい、仕上がりの出来が違うことは誰にでも分かることだが、「見た目」だけではなく、もうちょっと科学的な比較はないものか。


探してみると、藤本昇さんという方が、銅鏡に含まれる「鉛」の同位体比を4軸チャートに表して比較するという、面白い本を書かれていた。


簡単に言ってしまうと、似たようなチャートを描く銅鏡は、その原料産地がだいたい同じという結果が出る。


それではと、「舶載」「仿製」の三角縁神獣鏡と、合わせて出所のハッキリしている「魏鏡」「呉鏡」の鉛同位体比チャートを、一枚のグラフ上に重ねてみれば、こうなる。

図表7 三角縁神獣鏡と中国鏡の鉛同位体比チャート

(出典『卑弥呼の鏡』藤本昇/2016年)

うむ、見た目は見た目でも、こっちの見た目はシロウトにも分かりやすい。


タテに長い「魏鏡」「呉鏡」のチャートと、平行四辺形っぽい三角縁神獣鏡のチャートとは、実は全く重ならない。


それに、今は「舶載」と「仿製」に区別されてる三角縁神獣鏡のチャートだって、だいたい似たような四角形を描いていて、原料がだいたい同じ場所で採取されたことが容易に理解できる(椿井大塚山出土品は同じ場所とは言い切れないが)。


それで「舶載」といいつつ肝心の中国では現物が見つかっていないんだから、話に信憑性があるのは「仿製」の方。


ならば「舶載」も、中国人が日本の銅を使って作った「仿製」・・・。

つまりは、三角縁神獣鏡は全て「国産」というのが、藤本さんのチャートから素直に読み取れる結論なんじゃないだろうか。

黒塚古墳 外観

(黒塚古墳 写真AC)

「黒塚古墳」の三角縁神獣鏡

ま、藤本説の真偽は措くとしても、実は三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」なんて大層ご立派な代物ではないなんてことは、実際の発掘の現場からも明らかになっているようだ。


1997〜99年にかけて、未盗掘だった石室が調査された天理市の「黒塚古墳」では、33面もの三角縁神獣鏡が遺骸を入れていた木棺の「外部」に並べられたが、木棺の「内部」には中国鏡の「画文帯神獣鏡」が一面だけ、大切そうに頭部近くに立てかけられていたそうだ。


どっちが重要かは一目瞭然だ。

黒塚古墳 鏡出土状況

(出典『大和の考古学』橿考研附属博物館/2021年)

同じく未盗掘だった滋賀県「雪野山古墳」でも、遺骸の頭部に近いところには大型の「倭製鏡」が置かれ、三角縁神獣鏡はその「外側」と「足元」にあったそうだ。


どうやら三角縁神獣鏡は、中国鏡や大型の倭製鏡より下位の存在でしかなかったようで、ヤマトが石室の「辟邪(魔除け)」などを目的に、中国人職工の手で葬儀用に大量生産した鏡・・という説には(個人的には)大いに説得力を感じざるを得ない。

「室宮山古墳」と河内王朝論

室宮山古墳

(室宮山古墳 出典「御所市公式サイト」)

奈良県御所市の「室宮山古墳」は、5世紀初頭に築造された238mの大型前方後円墳だが、副葬品には三角縁神獣鏡など3世紀代からの伝統をもつ品々に加え、5世紀に主力となる「甲冑」などの武器・武具を共伴していたそうだ。


これを「河内政権論」の立場から説明するなら、奈良盆地東南部(桜井市・天理市)の"旧勢力"と、河内平野に勃興した"新勢力"が、それぞれの「威信財」を与えることで自陣営への取り込みを図った結果・・・ということになるらしい。


そして「室宮山古墳」の被葬者たちが"新勢力"の河内王権を選んだことで、大和から河内への「政権交替」が起こった、と説明は続く。


こちらの立場では、三角縁神獣鏡(や甲冑)は威信財=ステータスシンボルとして自慢できるが、与えられた「見返り」として服従を誓わせられる、ちょっと怖いプレゼントだ、となる。

「鏡の古代史」

一方、5世紀ごろに「王朝交替」なんてなかった、と考える立場だと、威信財への発想もまるで逆になるようだ。


それはむしろ、各地の首長の側からヤマトに求めてきたもので、ヤマトはそれに応じる形で配布したものだ、と説明される。


鏡を副葬する前方後円墳は、(諸説あるが)3世紀の後半に「箸墓古墳」が完成してから、それほど時間の経たない3世紀末から4世紀初頭のうちに、全国で「同時多発的」(広瀬和雄氏)に造営が始まっている。


この早い展開を、単にヤマトが勢力を畿内から東西に拡大した結果・・・と見るのは、あまりにもヤマトの力を過大評価し過ぎというものだろう。


それはまだ首長権の継承が不安定だった時代に、各地の首長の側から「外的承認」の証しとして、鏡と古墳が求められた結果だと、考古学者の辻田淳一郎さんは書かれている。

ところが、実際には各世代ごとに鏡が入手・副葬されていることからすれば、この時期の首長権は世襲的なものではない場合が多かったとみるのが妥当である。


つまり、首長権の世代間継承が不安定だったからこそ、鏡の入手による「外的承認」が必要とされたと考えられるのである。


(『鏡の古代史』辻田淳一郎/2019年)

そうして彼ら各地の首長層は、畿内で前方後円墳の造営などに参加して、提供した労働力などの「見返り」として鏡をもらい、古墳の設計図なども持ち帰ったのだろうと、辻田さんはお考えだ。

つまりは、能動的に動いていたのは、地方の首長層の方だったということだ。

黒塚古墳 出土鏡

(黒塚古墳出土鏡 出典『大和の考古学』)

佐味田宝塚古墳に廃棄された銅鏡

ところで、室宮山古墳から北に10数キロのところに、室宮山古墳よりちょっと早い西暦400年ごろに築造された「佐味田(さみた)宝塚古墳」という前方後円墳がある。


こちら墳丘長は111mと、この時代だと「中の下」ぐらいの規模にも関わらず、36面もの銅鏡の出土が記録されているんだそうだ。


と言っても、被葬者には何か隠された秘密でもあったのか・・・、とかいったような話じゃなくて、辻田さんによれば「役目を失いつつあった銅鏡」を、副葬という形で「廃棄」したケースが、この時期の「沖ノ島」などでも確認できるんだそうだ。


4世紀後半には日本での銅鏡の生産は一旦終了しつつあり、副葬品の主流は「鉄製武器・武具類」に移行し始めていた。


それは、異なる威信財をもつ勢力が「政権交替」したというようなことではなくて、単純に「威信財システムの更新」という、その後、何度も繰り返された歴史の第一回目に過ぎないのだと、辻田さんはお考えのようだ。