記紀でちがう出雲の神々
〜アジスキタカヒコネ、スクナヒコナ〜
天と地のアジスキタカヒコネ
オオクニヌシの子とされる、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根命)を祀る「日光二荒山神社」(2022春参詣)。
日本書紀で、そのアジスキタカヒコネが登場するのは「神代(下)」の、いわゆる"葦原中国の平定"の場面だ。
皇祖タカミムスビ(高皇産霊尊)は、孫のニニギを葦原中国の君主にしようと考え、まずアメノホヒ(出雲国造のご先祖)を地上の平定に向かわせた。
しかしアメノホヒもその子も、オオクニヌシにおもねって地上から復命しなかった。
3番目の使者はアメワカヒコ(天稚彦)で、この神に至ってはオオクニヌシの娘(下照姫)を妻に娶って、地上に住み着いてしまった。
そしてその後いろいろあって、アメワカヒコはタカミムスビの放った「返し矢」によって、命を落とすことになる。
ここで登場するのが、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根命)だ。
アジスキは、葦原中国に降りてからのアメワカヒコの親友で、その姿はワカヒコにそっくりだった。
そのため、アジスキが弔問のため「天」に昇ると、ワカヒコの家族はアジスキをワカヒコと間違えて、その復活を喜んだ。
だが死者に間違えられたアジスキは憤慨し、喪屋を切り倒して地上に落としてしまったという・・・。
さてこの不思議なエピソードは、死と再生の物語として『妖怪ハンター』(諸星大二郎)なんかのモチーフになったりで有名なものだが、実は古事記の方には、誠によく似ているが決定的に違うストーリーが載っている。
日本書紀ではアジスキの方が「天」に昇ったが、古事記ではワカヒコの「殯(もがり)屋」は地上に作られ、家族の方がそこに降臨してきたとあるのだ。
つまり古事記のアジスキは、ただ地上をトコトコ歩いて移動しただけというわけだ。
松本直樹さんの説
アジスキタカヒコネが天に昇った日本書紀と、地上でのみ活動した古事記のちがい。
こいつを説明してるような本はないかーと探したところ、上代日本文学を専門とされる松本直樹さんの『神話で読みとく古代日本』(2016年)がヒットした。
この本で松本さんは、まず古事記を褒める。
一言でいって、古事記は実に「完成度の高い作品」である。用語、用字のレベルに至るまで相当に綿密な計算がなされ、それが全体の主題、文脈を支えている。
そのことは、多くの研究成果によって証明されてきた。
(「2 古事記の<神話>をどう読むか」)
んでその上で、古事記の中に「古事記らしからぬ、おかしな所がある」とおっしゃっている。
それが、スクナヒコナが去った後、オオクニヌシが出会った「海を光して依り来る神」の、 祭祀についてだ。
光る神は「吾をば倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といい、日本書紀の同じ場面では、オオクニヌシは神宮を三諸(三輪山)に造営して神を住まわせたとある。
ところが古事記には、オオクニヌシが「その神を祀ったという明確な記述がないのだ」。
オオクニヌシとオオモノヌシ
日本書紀では、「光る神」はオオクニヌシの「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま = 瑞祥と神霊の魂)」だと説明され、オオクニヌシと三輪山の神、すなわち大物主神(オオモノヌシ)は「同一神」だと見なされた。
しかし古事記では、オオクニヌシと「光る神」は全く別の神であるうえ、オオクニヌシが大和(倭)に出向いたという記述もない。
古事記でオオクニヌシが大和(倭)に「上る」ことができないという描写は、他の場面にも見ることができる。
それは、高志(越)の沼河比売(ヌナカワヒメ)を現地妻にしたオオクニヌシが、正妻・スセリヒメの嫉妬を怖れて出雲から大和に上ろうと考え、旅支度まで整えたものの、スセリヒメの愛の歌に心を打たれて出雲に留まった・・・というエピソードだ。
こうした古事記の意図を松本さんは、オホクニヌシの力を「倭」にだけは及ばせないためであろう、と分析されている。
記と紀のスクナヒコナ
まとめてみれば、「出雲 vs 大和」さらには「葦原中国 vs 高天原」というような境界を、ほとんど意識していない日本書紀と、厳密に分断して対立させている古事記・・・ってかんじだろうか。
日本書紀ではオオクニヌシもアジスキタカヒコネも、平気でその境界を跨いでいってしまうが、古事記には越えられない壁、バリヤー、結界、何でもいいが、そういう一線が確実に存在しているようだ。
出番は僅かだが、オオクニヌシの相棒スクナヒコナからも、同じことは感じることができる。
まず古事記では、スクナヒコナは『出雲国風土記』にも登場する「カミムスビ」の子だといわれるが、日本書紀では天上界の主宰神にして皇祖神の「タカミムスビ」の子として生まれた上、タカミムスビが公認して二神がコンビを組んだという経緯が載っている。
そして、コンビを組んだオオクニヌシとスクナヒコナの活躍を、日本書紀はこう記述して いる。
またこの世の青人草と家畜のためには療病の方法を定められ、鳥獣や昆虫の災異を除くために、まじないはらう方法を定められた。
だから百姓(おおみたから)は今に至るまでみなこの神の恩をうけているのである。
実はこの、彼らの具体的な功績を、古事記はまったく書いてない。
古事記はただ「二神は一緒にこの国を作り堅めた」と漠然とした話に留まっていて、日本中から感謝されているという日本書紀に比べると、古事記の二神はあくまで「出雲の開拓神」に限定されてるように感じられる。
ぼくにはここでも古事記からは、オオクニヌシを(筑紫や越を含む)「国つ神」の出雲世界の中に閉じこめたいという意思を感じてしまうわけだが、それって考えすぎだろうか。
余談になるが、上の写真の酒列磯前神社では、平安時代初期の856年に大洗海岸にオオクニヌシ・スクナヒコナが救世のため示現したってのが、祭祀の縁起として「 正史」に記録されている。
一説によると、オオクニヌシは出雲大社に「怨霊」として封印されたという話だが、856年には早くもその封印は解除されていた、ということになるんだろうかw。