熊野本宮大社の祭神とは
〜物部氏の太陽神ニギハヤヒか〜
熊野のオオクニヌシ
2021年春に参詣した、熊野那智大社の別宮「飛瀧(ひろう)神社」。
飛瀧神社の祭神は出雲の大黒様こと「大己貴神(大国主命)」。
紀伊には「熊野大社」や「須佐神社」など、出雲にある神社と同名の古社があることで、大昔に出雲族が熊野に移住してきたと考える人が多い。
昭和44年当時、那智大社の宮司だった篠原四郎さんもその一人で、「熊野」という地名自体、移住してきた出雲族がつけたもの、と著書に書かれている(『熊野大社』篠原四郎/1969年)。
熊野那智大社の潮崎氏
熊野三山のうち、那智大社だけは「延喜式神名帳」に記載がない。
と言うのも、こちらは神社と言うより、寺院として発展した面が大きかったからだそうだ。
社家として最も古いのは「高倉下(たかくらじ)」の子孫を称した「潮崎氏」とのことだが、潮崎氏は神職ではなく僧侶として代々お勤めされたんだそうだ。
なお高倉下とは、東征途上の神武天皇軍が熊野の神に毒気を吐かれて集団昏睡してしまったとき、高天原のタケミカヅチ(武甕雷神)から「ふつのみたま」という剣を授かって、 天皇軍を覚醒させた人物だ。
のちに「ふつのみたま」が物部氏の管理下に置かれた点や、剣の威力が生き返りの呪法を思わせる点から、高倉下が物部一族である可能性も考えられるようだ。
てか「先代旧事本紀」ではモロに、高倉下は物部氏の祖神「饒速日命(ニギハヤヒ)の子」だと書いてある。
それにしても、篠原さんの本では「飛瀧神社」を建てたのは、この地を「熊野」と名づけた出雲からの移住者だというわけだが、それは一体いつ頃の事なんだろう。
南紀の一帯は、成務天皇の時代(長浜浩明さんの計算で在位320〜~350年)に「熊野国造」の支配が認められたというから、その頃までにはもう「熊野」と呼ばれていたことになる。
それなら出身が出雲だという「武蔵国造」や「遠江国造」のように、早くから熊野に移住して勢力を広げた出雲族が熊野国造に就任したのでは?と考えたくなるが、熊野国造の出自は「饒速日命(ニギハヤヒ)の5世孫」だという記録があって、出雲族ではない。
熊野速玉大社の穂積氏
熊野川のほとり、平地に鎮座する「熊野速玉大社」には階段がなくて、心臓と足腰にやさしい神社だった。
速玉大社の神職は、奈良時代から「穗積氏」という一族が禰冝を継承したとのことだが、 穗積氏は熊野国造とは同祖だという。
篠原さんの本によれば、もともと熊野一帯は高倉下の子孫が政治と祭事の両方を取り扱ってきたが、成務天皇の時代に熊野国造が設置されると、高倉下の子孫は「熊野神」の祭事だけを務めるようになったという。
んで穗積氏は、この高倉下の子孫である宇井・鈴木・榎本の三氏のうちの鈴木氏にあたるというので、つまりは物部氏だ。
熊野本宮大社の太陽神?
さて、「熊野本宮大社」の主祭神は「家都美御子(ケツミミコ)」といって、旅行ガイドなどには「スサノオ」の別名だと書いてある。
だがケツミミコは「唐の天台山」から飛んできた仏教の神(?)とのことで、その時代も9世紀のことだという。
ぼくが知りたいのは、それより前の、高倉下の子孫とかが祀ってきた、もっと古い時代の祭神についてだ。
それでもう一度、篠原さんの本をめくってみたところ、本宮大社の「八咫烏神事」の説明に、非常に面白いことが書いてあった。
長くなるが、新品の入手は困難な本のようなので、 段落丸ごと引用してみる。
記紀や天孫本紀の記述によると、神武東征以前にはすでに天津神の御子が大和国に天降っていたということから、熊野の地に住み着いた天孫系神別諸氏の日神信仰によって創立したのがこの本宮であったと考えられる。
それは熊野の大神の神遣が太陽の化身「八咫烏」であることも本宮祭神の始元が日神であったことを物語っていると思われる。
本宮大社に伝わる「八咫烏神事」は太陽の蘇りを顕す祭りで、年が改まったのに当たり太陽の光と共に素戔嗚命の広大慈悲な御神徳が再び蘇って戴くという、まさに熊野信仰がそのまま凝縮され、形となったような御祭りである。
太陽の化身と素戔嗚命の御神徳が一年に一度蘇る祭り、それが「八咫烏神事」である。
当社の大神の御遣い「八咫烏」は太陽の化身である。
(「本宮の神事」『熊野大社』)
なるほど「本宮祭神の始元」は「日神」だったということか。
しかしヤマトの神々の体系では、日神 = 太陽神は皇祖アマテラス大神のことで、スサノオはむしろ太陽を遮る暗黒の雲を呼び起こす、暴風雨や嵐の神としてのイメージが強い。
ならば熊野には元々、アマテラスではない、もう一人の太陽神がいたということなんだろうか。
民俗学者・谷川健一さんの説
それでもう一度本棚を漁ってみたところ、民俗学者・谷川健一さんの名著『白鳥伝説』(1986年)に、神武東征以前から、畿内で祀られていた太陽神についての記述があった。
それはズバリ、物部氏の祖神・饒速日命(ニギハヤヒ)だ。
『白鳥伝説』には、折口信夫の「ニギハヤヒは大倭をつかさどる威霊の神格化」という説が紹介されてて、谷川さんも同意されている。
そして、ニギハヤヒは一個の人間ではなくて最初から神、それも物部氏が得意とする金属加工から放たれる光の輝きが太陽光に転じた、太陽神だろうと谷川さんはいう。
大水口宿禰の夢
大水口宿禰を祀る「水口神社」(甲賀市)
ところで第10代崇神天皇の御世、三輪山のオオモノヌシが天皇の夢に現れ、自分を子孫のオオタタネコに祀らせれば疫病を終息させると持ちかけてきた。
はじめは半信半疑だった崇神天皇だったが、その後、別々の3人から同じ夢の話を聞いて、行動に移す。オオタタネコを探し出したのだった。
希望通りに子孫の祭祀を受けられたオオモノヌシは鉾を納め、祟りは消えた・・・。
このとき、夢で大物主神のお告げを聞いた3人のなかに、「大水口宿禰(おおみなくちのすくね)」という人がいた。
常識で考えれば、シャーマンの能力で天皇の側近として仕えた人物だろう。
そして日本書紀には、こう書いてある。
大水口宿禰は「穗積臣の先祖」だと。
穗積・・・。
熊野速玉大社で、代々神職を務めた「熊野連」が穗積氏で、「熊野国造」とは同族だった。
その熊野国造は熊野本宮大社の神職で、「ニギハヤヒの5世孫」だという和田氏。
熊野那智大社で一番古くからの社家の「潮崎氏」は、「先代旧事本紀」がニギハヤヒの息子だと記す、高倉下の子孫。
・・・なんてことはない。 熊野三山のすべてが、元々は物部氏と深い繋がりがあったってことだ。
そこに大水口宿禰がみたオオモノヌシの夢のお告げの意味を加えれば、熊野三山で祀られるべきは、彼らの祖神・ニギハヤヒしかないんじゃないか?
この頃の神々は、「直接の子孫による祭祀」を望んでいたのだから。
だいたい、ニギハヤヒほど神武東征に功績があった人はいないのに、それが大々的に祀られていないというのも変な話だ。
「大和の国譲り」の功績なんだから、出雲大社のオオクニヌシと同じレベルで祀られる資格があるはずだと、ぼくは思う。
ただ、いかんせん物部氏の没落が早すぎたのだろう。
それで早くも9世紀には「仏教の神」と入れ替わり、早々に人々の記憶から消されてしまったのかも知れない。
なお、畿内などに分布する「天照御魂神社」も、元はニギハヤヒを祀ったのだろうと『白鳥伝説』には書いてある。