『狗奴国浪漫』邪馬台国時代の「熊本」

〜狗奴国東海説への反論〜

熊本県山鹿市のチブサン古墳

チブサン古墳

2019年3月に見学した、熊本県山鹿市の「チブサン古墳」。


6世紀初頭に造られた全長45mの前方後円墳で、石室の内壁に描かれた不思議な装飾文で有名だ(下の写真はレプリカ)。

チブサン古墳装飾壁画

さて、魏志倭人伝によると「女王国(邪馬台国)」の北には「伊都国」があり、女王国の南には「狗奴国」があったという。


当時の邪馬台国には7万戸、その北の「投馬国」には5万戸があったというんだから、相当に広い平地が必要だろう。

なにしろその頃の、奈良盆地最大の弥生ムラといわれる「唐古・鍵遺跡」の人口は、何とたったの900人という試算が出ているのだ。

川崎市「稲毛神社」のお守り

(川崎市「稲毛神社」のお守り)

西暦250年ごろだと、まだ佐賀平野や玉名平野は大半が海の中だったというので、伊都国(糸島市・西区・早良区)の南というと「筑紫平野」、そのまた南というと「熊本平野」か。


チブサン古墳のある山鹿市あたりは、筑紫平野とは山一つ隔てただけのロケーションで、魏志倭人伝のいう狗奴国があった可能性はあり得ると思う。

『狗奴国浪漫』(2014年)

それで邪馬台国時代の熊本について知りたくなって、取り寄せたのが伊都国歴史博物館が発行している『狗奴国浪漫』(2014年)という図録。


今回調べるまで知らなかったが、こういう日本各地の歴史博物館の書物は、大抵が国立歴史民俗博物館のサイトから購入できるようだ。

便利な世の中になったもんだ(ってニワカのくせにエラそうwww)。

熊本県の大規模弥生ムラ

方保田東原遺跡

(方保田東原遺跡 山鹿市公式サイト)

んで上の写真が、山鹿市の「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」。


遺跡全体では35haというから、同時代の奈良県「唐古・鍵遺跡」や滋賀県「伊勢遺跡」といった近畿の有名弥生ムラより、やや大きい規模。


見つかった住居跡は400棟を数え、県内最多の青銅器を出土、多量の鉄製品とその未完品も出土していて、かなりの国力を誇ったようだ。


熊本は県全体としても、日本最多の鉄器の出土で知られるが、その秘密が当時では最高レベルに貴重品だった赤色顔料「ベンガラ」の名産地であること。

それを反対給付品にすれば、鉄素材なんかガンガン入手できたんだそうだ。


※当時まだ、日本では鉄素材はほとんど産出していない。

神水遺跡

(神水遺跡 熊本市公式サイト)

熊本の弥生ムラとしては最大規模、と目されているのが、熊本市市街地の水前寺公園と江津湖にはさまれた台地に位置する「神水遺跡(くわみずいせき)」。


こちらは遺跡全体としては72haが想定されていて、伊都国の中心地「三雲・井原遺跡」や、大阪府「池上曽根遺跡」を上回るという。

宮地遺跡群

(宮地遺跡群 熊本市公式サイト)

熊本市南区にも「宮地遺跡群」という大きな弥生ムラがある。遺跡面積は20ha。

竪穴住居539棟、甕棺墓89基、土坑墓252基、木棺墓54基などが密に分布する集落だったそうだ。


邪馬台国の有力候補とされる「平塚川添遺跡」(朝倉市)で発掘された竪穴建物が300棟、山陰最大の「妻木晩田遺跡」(米子市)で395棟というんだから、熊本、ぜんぜん負けてないぞ!

全国の主な弥生遺跡

(出典『伊都国』伊都国歴史博物館)

消えた狗奴国

というわけで、弥生時代終末期の熊本には、魏志倭人伝の「狗奴国」だと胸を張って主張できる弥生ムラが存在したことが確認できた。


もっと小規模なムラは、外輪山の内側などにも多数あって、やはりベンガラと交易したと思われる鉄素材を使って、豊かな生活を送っていたらしい。


ところが考古学者の村上恭通さんによると、古墳時代に入って間もなく、そんな豊かな熊本の集落は姿を消していったのだという。

じつは、あれほど大量の鉄器が出土すると話をした熊本県域も、それは弥生時代後期後葉までのことであって、古墳墳時代前期になると鉄器をもつ集落がほとんどみられなくなります。

鉄器を潤沢に生産し、消費していたはずの熊本から大集落や鉄器がみられないという状況になるのです。


北部九州の縁辺ともなる熊本県北部の集落ではまだわずかにそういった集落が点々とみられますが、昨日お話ししました阿蘇とか緑川流域ではそういう集落がみられなくなります。


(『邪馬台国時代のクニグニ - 南九州』シンポジウムでの発言より)

『邪馬台国時代のクニグニ - 南九州』

さてこのFACT、一体どう捉えたらいいんだろうか。


村上さんによれば、邪馬台国と狗奴国がバトっていた古墳時代前期初頭、北部九州の「博多遺跡」(すなわち奴国)の界隈では、フイゴの羽口の大型化が実現して、鉄器の精製力や加工力に革新が起こっていたそうだ。


なので確かに熊本の鉄器生産方法は時代遅れになっていたようだが、だからといってベンガラの産地である限り、鉄素材には事欠かないはず。


「大集落や鉄器が見られない」ほど「鉄器を大量に生産し消費する社会が衰退」してしまうなんてことが、あり得るものなんだろうか。

狗奴国はどこへ行ったか

2019年の熊本城

2019年の熊本城

狗奴国はどこに行ったのか。

パッと思いついたのは3点。


①邪馬台国に敗北して皆殺し

これが一番シンプルだが、魏志倭人伝によれば卑弥呼が没した248年ごろ、邪馬台国では内戦が起こっていて、「千余人」が死んだという。

そんな邪馬台国に、狗奴国との戦争を継続する力が残ってたとは考えにくい気がする。


②都会に移住した

村上さんによると、このころ技術革新に成功した奴国「博多遺跡」の鉄器生産力は他を圧倒していて、他者の追随を許さない次元に達していたんだそうだ。

でも、それでは・・・と熊本人が家族ぐるみで博多に引っ越して、鉄生産にたずさわる―――というのは現代的な発想だろう。


また、博多遺跡の革新である「筑紫型のフイゴ羽口」は、3世紀後半までには瀬戸内、日本海、さらには畿内「纒向遺跡」へと伝わっていて、別に奴国が独占していたわけではなかったらしい。

2019年の阿蘇神社

(2019年の阿蘇神社

③ぜんぜん関係ないところに移住した

『日本の神々 神社と聖地11関東』によると、肥前国風土記「逸文」に出てくる「杵島(きしま)」の枕詞と、常陸の「鹿島(香島)」の枕詞がどっちも「あられふる」で同じ。


また、常陸国風土記で崇神天皇の時代に常陸の賊を平定した「仲(那珂)国造」の建借間命と「火(肥)国造」は、どちらも神武天皇の皇子「神八井耳命」を祖とする「多臣(多氏)」の出身で同じ。


そんな共通点から、『新編常陸国誌』なる古文書では、タケカシマが賊をおびき寄せるため兵に歌わせたのは「杵島曲(きしまぶり)」で、それはタケカシマが「火国造ヨリ支別シ人(即肥国人)」だからだと書いてあるんだそうだ。


崇神天皇の時代というから、長浜浩明さんの計算では在位207〜241年のどこかで、肥の国の人々がタケカシマに率いられて常陸に移住してきた、ということだが・・・女子供を連れてあの距離を移動って、さすがにあり得ないか。

森浩一と狗奴国

『敗者の古代史』森浩一/2016年

ま、消えた肥後もっこすについては今後の課題にするとして、そういえば「狗奴国」といえば、著名な考古学者・森浩一さんがNHKに激怒している一節を思い出した。

平成23年(2011)10月16日の夜に、NHKは歴史番組と称して「卑弥呼と邪馬台国の謎」を放送した。

驚いたことに原典の倭人伝の記述によることはなく、卑弥呼についての雑談としか思えないことを次々に並べた。30年前ならまだしも、それはひどいものだった。


とくに狗奴国の位置を倭人伝の記述を無視して東海に変えてしまった。これはヤマタイ国をヤマトとする前提に立ち、しかも狗奴国の方向の「南」を勝手に「東」と変えることから出る暴論である。


卑弥呼を取りあげるなら、原典の倭人伝に即して番組を作るのは当然であろう。見終わって不愉快であるとともに、日本人の知的水準を低いものとして作ったとしか思えない。


(『敗者の古代史』森浩一/2016年)

これはハゲ同だ(古っ)。

距離はともかく、太陽さえ出ていれば、方位なんて小学生でも分かる話。

当時、世界最高水準の知性を誇った大中華からの使者様が、「南」を「東」に間違えると、思える方が不思議だ。

《追記》狗奴国東海説について

その後、1998年に開かれた第5回「春日井シンポジウム」の様子をまとめた『古代史のなかの女性たち』(森浩一・門脇禎二)を読んでいたら、卑弥呼つながりか、巻末に誌上参加として「狗奴国東海説について」という論文が載っていた。


書かれたのは、1998年当時、春日井市の教育委員会に在籍された大下武さん。


大下さんは20年間もの長きにわたって、春日井シンポジウムの企画と運営に携わってこられたんだそうだ。

その当時の大下さんによれば、古来「狗奴国」の所在地には「伊予説」(本居宣長・吉田東伍)や「熊本説」(新井白石)が知られるが、「最近」は東海に所在を求める論が増えてきたのだという。


文献史学だと直木孝次郎・山尾幸久、考古学だと白石太一郎・春成秀爾といった先生が中心的な論者で、そこにその頃発表された赤塚次郎氏の「東海系土器の拡散」論や「前方後方墳の東海発生」説が、ブースター的に投入されたんだそうだ。


簡単に言ってしまえば、古墳時代前期前葉の「土器」と「古墳」が、畿内と東海では文化圏が違っているので、そこに邪馬台国と狗奴国の対立を見るのが「東海説」。


分かりやすい古墳でみれば、畿内は前方後「円」墳の文化圏で、東海は前方後「方」墳の文化圏ということで、前者が後者を併呑して畿内にヤマト政権が誕生したという「邪馬台国畿内説」の有力な援軍ともなっているようだ。


ただ個人的な印象としては、狗奴国東海説の先鞭を付けたという田辺昭三氏も(魏志倭人伝に邪馬台国の「南」と書かれている狗奴国の位置を)「南を東に読み替えると」といわれているように、方角を勝手にねじ曲げる不思議な作業が前提になっているので、そこをまず解決しないと、東海説は「仮説」の域を出ていないような気がしている。


反論①纒向遺跡の東海系土器


ま、ぼくの感想はおいとくとして、なるべく大下さんの論旨に沿うように東海説への反論をあげていくと、まずこの図。

(出典『古代史のなかの女性たち』)

卑弥呼が没した西暦250年ごろ、纒向で出土する土器の20%が外来系だったが、東海系はそのうちの60%と他を圧倒している。


中国に救援を求めるほど激化している戦争のさなかに、東海から纒向に大量の土器が持ちこまれている現象をどう説明するのか。


反論②3世紀後半の前方後方墳と前方後円墳

このGoogleマップはぼくが3分で加工したテキトーなもんだが、赤のマークが3世紀後半に築造されたとされる前方後「円」墳で、緑のマークが同時期の前方後「方」墳の一例。


これだと、東海から東国に多いとされる「方」と、畿内以西に分布するはずの「円」が、完全に逆転していることが見て取れる。


なお、西から備前車塚古墳(岡山)、西求女塚古墳(神戸)、芝ヶ原古墳(京都)が「方」。

新豊院山2号墳(静岡)、秋葉山3号墳(神奈川)、神門5号墳(千葉)が「円」だ。


反論③纒向遺跡の前方後方墳

(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館)

上の「図29-4」は、纒向遺跡で唯一確認されている前方後「方」墳で、墳丘長28m、庄内3式〜布留0式の築造(270〜290年)となる「メクリ1号墳」。


立地はJR巻向駅の目の前で、つまりは有名な「神殿」のある辻地区建物群のすぐ脇ということで、そんな重要な心臓部に、敵対してる勢力のお墓を造るもんなんだろうか。


反論④濃尾平野のリアル


濃尾平野というと、織田信長が躍進した原動力となった「肥沃な平野」のイメージが強いが、弥生時代の地形がこれ。

(出典『東西弥生文化の結節点 朝日遺跡』原田幹)

図は弥生前期のものだが、他の回の春日井フォーラムのなかでは、古墳時代前期には大垣市まで海が迫っていたという調査結果が論じられていて、地域最大の弥生ムラ「朝日遺跡」も古墳時代初期に「水没」によって「放棄」されているんだそうだ。


濃尾平野南部が陸地化した5世紀になって、ようやくこの地に「尾張氏」という大豪族が誕生するのは、この「地形」の変化のおかげだと、大下さんも書かれている。



———というわけでササッとまとめてみたが、土器とか古墳の違いの前に、まず倭人伝のいう方角「南」を「東」にねじ曲げてもいい理由が明かされないと、狗奴国東海説の支持者にはなれそうもない、というのがぼくの感想だ。


あ、例の「混一疆理歴代国都之図」は15世紀の朝鮮製らしいので、それは根拠にはならないということで、お願いします。


『ヤマトと伊都国  邪馬台国畿内説のゆくえ』を読んでにつづく