邪馬台国への道(5)邪馬台国
(高良大社と祇園山古墳)
高良大社
2022年春に参詣した、筑後国一の宮、久留米市の「高良(こうら)大社」から眺める筑紫平野。
クネクネの山道をクルマで進み、きっつい階段を登り切ってようやく得られる、素晴らしい眺望だった。
「肥前国風土記」によれば、熊襲征伐のあと九州を巡幸した第12代景行天皇も、「御井の郡の高羅の行宮」から筑紫平野を一望したんだそうだ。
祇園山古墳
参詣を済ませて高良山をくだり、古墳時代の方墳「祇園山古墳」へ(約23x23m)。
墳頂には、北部九州で広く採用された「箱式石棺」の跡があった。
祇園山古墳は久留米で最も古い古墳で、かつ殉葬の痕跡が見られることから、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓だという説もあるようだ。
邪馬台国の場所
さて、卑弥呼の名前がでたところで、『露見せり「邪馬台国」』(中島信文)から、邪馬台国所在地の最終結論を見てみよう。
その評価条件はこうだ。
①邪馬台国は投馬国の南。
②不弥国からの直線距離は55キロ以内。
③人口7万戸の大国。
④南に「狗奴(くな)国」という敵対国がある。
んで5カ所ほどの候補地から、めでたく上記の条件を満たしたのは「筑後市から八女市の周辺」だ。
なーんだという声も聞こえてくるが、倭人伝の記述を素直に読み込めば、おおむねこの辺りに辿り着くしかない。あの新井白石や本居宣長も、ほぼ同じ結論らしいと聞く。
問題は、「筑後市から八女市の周辺」には、考古学が納得するような大きな遺跡がないことだ。
だがそれは、(すでに見たように)邪馬台国=纒向遺跡の可能性が薄くなってる今、畿内の事情も似たようなものだ。
ただ九州では、ここ最近の新幹線や高速道路の開発に伴って、筑紫平野から当時の遺跡が続々と見つかっている最中なのだという。
投馬国と邪馬台国は「隣接」していた
九州の遺跡事情に詳しい、片岡宏二さんの『増補版 邪馬台国論争の新視点 -遺跡が示す九州説-』(2019年)を読む。
まず片岡さんは、太宰府天満宮に残る唐代の類書『翰苑(かんえん)』の「廣志」には、「水行十日陸行一月」の記述がないことから、倭人伝の元ネタ『魏略(ぎりゃく)』も同様の可能性があったと考えて、その部分に著者・陳寿の「加筆」を推察する。
でも陳寿は、なぜ「里」で距離を表さなかったのか。
それは不弥国と投馬国、投馬国と邪馬台国がそれぞれ、「隣接」していたからではないか。
現代でいえば、川崎市と横浜市の「距離」は近いところは隣り合っているし、遠いところは10キロ、20キロと離れてて一概には言えないが、そういう状態か。
帯方郡から邪馬台国までのトータルの距離は12000里だと書いてあるんだし、不弥国から南は使者が滞在した「期間」を記録しとけばいいだろう、と陳寿は考えたのかも知れない。
巨大な環濠がムラをクニにまとめる
近年、筑紫平野から見つかる弥生遺跡からは、ムラを囲む「環濠」の外側に、もっと大きな別の「溝」が現れることがあるという。
片岡さんは、それらの溝で繋がったムラムラが、「クニ」である可能性を指摘されている。
このようにみると筑紫平野の集落は、一地域の中核となる集落であり、同時にもっと広い範囲で、連携した集落組織に属するという、いわば二重構造を持っていることになる。
こうした構造は、邪馬台国にみられるクニグニとそれらが連携した邪馬台国連合の姿に重ね合わされる。
さらに、集落のネットワークは平地のムラだけに留まらず、クニを守るために高地に築かれた「監視集落」にも考えられるという。
ただ、それら監視用の環濠は、近畿の古墳文化が入ってきた弥生時代終末期には、姿を消していったのだそうだ。
上の「図48」だと「小田・平塚遺跡」が投馬国、「山門遺跡」が邪馬台国の、それぞれ中心地になるんだろうか。
残念ながら現状では、それらを確定できるような材料はないそうだ。
だが大切なことは、魏志倭人伝を馬鹿にして方角や距離を都合良く改変したりせずに、真摯に「文献」と「考古学」が折り合う地点を見つける努力を続けていくことなんだろうと、外野からは思う。
狗奴国はどこに
「狗奴国」の問題も同じだろう。
魏志倭人伝には「其南有狗奴國」と明記してあって、片岡さんによれば、福岡県の「南」の熊本県では、弥生後期後半から古墳時代初頭にかけての住居跡から、大量の鉄器が見つかっているのだという。
製鉄炉の密集度は日本屈指で、土器にも高い独自性があった弥生後期の熊本が、「一つのまとまり」を示すことを考古学的に証明することは、さほど難しい問題ではないそうだ。
狗奴国を、好き勝手に出雲だ熊野だ東国だと持って行く人たちは、この肥後の文化圏は倭人伝の何に当たると言うんだろう。
安本美典さんの本に、興味深いグラフがのっていた。
ぼくはかねがね、クマソを征伐した景行天皇が、帰り道の熊本を安全地帯のように巡幸したことが不思議でならなかった。
ご存じの通りで、その後もクマソは健在だったから、改めてヤマトタケルが親征を行ったのだ。
でも「図18」を見ると、その頃の熊本はすでに、北部九州の文化(箱式石棺)に浸食されていたことが良く分かる。
同じ調査で、弥生時代後期に福岡県の箱式石棺が267基を数えた時には、熊本県はわずか「5基」だったのだ。
なるほど、景行天皇が巡幸されたころ、熊本はもう北部九州勢の勢力下に置かれていたというわけか。
だから天皇は安全に旅ができたのか・・・って、それじゃ北部九州の盟主、邪馬台国はその時、どうなってたんだろう。
邪馬台国への道(6)邪馬台国の滅亡 につづく