ツヌガアラシトと丹波道主 〜アメノヒボコと伊和大神〜

氣比神宮のツヌガアラシト

氣比神宮

福井県敦賀市の「氣比(けひ)神宮」。 

越前国一の宮、名神大社、官幣大社で、並ぶものなき北陸道の総鎮守だ。


写真の大鳥居は1645年の建立で、厳島神社、春日大社とあわせて日本三大鳥居だとかで、いやーカッコいいわ。先の大戦の敦賀空襲にも耐えたそうで、根性あるわ。

角鹿神社

本社へのお参りはソコソコに、ぼくらが向かったのは境内摂社の「角鹿(つぬが)神社」。

ご祭神は、第10代「崇神天皇」の御代に「笥飯(けひ)の浦」に来着したという、大加羅国の王子「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」という渡来人だ。


「日本書紀」によれば、ツヌガアラシトは日本に「聖王」がいると聞いて「穴戸(長門)」「出雲」を経て、はるばる来朝したという。

崇神天皇崩御のあとは、第11代「垂仁天皇」に3年仕えて帰国した。


ただ氣比神宮の社伝では、ツヌガアラシトは天皇から神宮の司祭と当国の政治を任せられたことになっていて、今も地元の英雄としてJR敦賀駅前で、訪問客に「よお」と挨拶をしている。

ツヌガアラシト

民俗学者の谷川健一氏は『白鳥伝説』の中で、現在の氣比神宮は応神天皇を主祭神として祀るが、もともとはツヌガアラシトが主神だったのではないかと考察されている。


さいたま市の氷川神社の「門客人神社」で祀られている「アラハバキ」と同じで、元々の地主神が後来の神と主客を転倒させている状態の一例ということだが、面白い話だ。

若狭彦神社の「異俗の人」

若狭彦神社

(若狭彦神社)

若狭姫神社

(若狭神社)

ところで今回の旅の目的のひとつに、「四道将軍」が各地を平定した際に「帰順」したという、「異俗の人」を見て回るというものがあった。


「蝦夷(えみし)」も考えたが、神武東征時には奈良盆地にもいたと記録される蝦夷も、200年以上たった崇神天皇の時代には、畿内周辺からは消えてしまっていた。


それならば「渡来人」を見ようと、真っ先に越前の一の宮を訪れてみたわけだが、お隣の若狭一の宮も、祭神は「異俗の人」だった。


古伝によれば、福井県小浜市の「若狭彦神社」の祭神・若狭彦は降臨したとき、「その形俗体にして唐人の如く」という姿だったという(若狭姫も遅れて同じ姿で降臨)。


さらに別の古伝によれば二神は「共に長寿にして、人、その年齢を知らず。容貌の壮若きこと少年の如し。後、神となる」。

網野神社浦島太郎

網野神社
浦島太郎像(島児神社)

文化人類学者の大林太良氏によると、山陰東部は古代から不老長寿願望の中心地だったそうで、そのひとつが「丹後国風土記」にも載る「浦島太郎」の伝説だ。


ぼくらも京丹後市 の「網野神社」を参詣したが、こちらの祭神の一柱が「水江浦嶋子神」だった。ついでに海辺に立っていた浦島太郎像(島児神社)にも参詣。


なお「丹後国風土記」では浦嶋太郎が着いたのは竜宮城ではなく、不老不死の理想郷「蓬莱山」とのことで、これは「とこよのくに」と読むらしい。

民間伝承の中に、中国発の神仙思想の影響が及んでいることがありありと見て取れる、一例だそうだ。

丹波道主を祀る神社

神谷太刀宮神社
神谷太刀宮神社

第10代崇神天皇(在位207〜241年)の10年、長浜浩明さんの計算では西暦212年ごろ、「四道将軍」の一人として丹波に派遣され、その地で「王化」「教化」を行ったいう、丹波道主命(たんばみちぬし)。


上の写真は丹波道主を祀る、京丹後市の「神谷太刀宮神社」。 

『鬼滅の刃』の主人公が斬ったという、ウワサの巨石(磐座)も見てきた。

養父神社

同じく丹波道主を祀る、兵庫県養父市の「養父(やぶ)神社」。

平安時代の「延喜式神名帳」では5座と記録される古社で、江戸時代には上社・中社・下社が置かれていたそうだ。

そのうち、現在地である下社で祀られていたのが丹波道主(谿羽道主)とその子孫らしい。

神明山古墳

京丹後市で墳長190mを誇る前方後円墳「神明山古墳」。

土地の人はこの古墳を丹波道主の墓とも、竹野姫の墓ともいうそうが、こちらの築造年代は西暦400年ごろとのことなので、彼らの人生より200年ほど後の話になる。

アメノヒボコと「伊和大神」

出石神社

垂仁天皇3年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦242年ごろ、新羅の王子を自称する「天日槍(アメノヒボコ)」が、7つの神宝を携えて来日した。


ちょうど同じ頃ツヌガアラシトは帰国していったが、アメノヒボコは帰らずに但馬に土着して子孫をなし、死んで神として祀られた。

それが但馬国一の宮、兵庫県豊岡市の「出石(いずし)神社」だ。

風土記

アメノヒボコについては中央の記紀だけでなく、同時代の「播磨国風土記」にも記録が残されている。

風土記というと、土地土地の紹介が中心なので時間軸が分かりにくいもんだが、「播磨国風土記」はアメノヒボコのおかげ?でヨソより把握しやすくなっている。


まずはアメノヒボコ「以前」の神話の時代。

播磨では「大汝命」=オオクニヌシが、「少日子根命」=スクナヒコナと協力して、橋を立てたり農地を広げたりと、国造りに励んでいた。

伊和神社

続くアメノヒボコの時代に、播磨を治めていたのが「伊和大神」とその一族。

上の写真は、伊和大神を祀る播磨国一の宮、兵庫県宍粟市の「伊和(いわ)神社」。


風土記は伊和大神の家族を紹介したり、求婚して振られて怒る大神を描いたり、播磨土着の伝承を生き生きと伝えている。

そこにアメノヒボコがやってきて、大神との間に土地争いを起こし、最後は軍事衝突に至った。


アメノヒボコが土地占有で揉めたのは伊和大神だけでなく「葦原志許乎命(あしはらしこお)」ともやり合った。

ただ、この葦原志許乎には土地争い以外の説明や事績がなく、どうも実体がないようにも思える。


その名前自体はオオクニヌシの別名のひとつとして、「古事記」ではスサノオが呼びかけたりしてるが、実は「中の人」はヤマトから派遣された軍人、例えば物部十千根あたりなのかも知れない。


というのも両者の土地争いは、最終的にアメノヒボコが現鎮座地の「伊都志(いずし)」 に収まることで決着していて、背後で大きな政治力が動いたようにも思えるからだ。


さて、アメノヒボコが来日したのは第11代垂仁天皇の3年で、長浜浩明さんの計算では西暦242年頃のこと。

当然、アメノヒボコの同時代人だった伊和大神や葦原志許乎命も、3世紀半ば〜後半を生きた人たちだったことになる


【関連記事】播磨国風土記の4人のオオクニヌシ

伊和神社

アメノヒボコが出石に落ち着いたあとは、その大きな政治力こと、リアル天皇の時代だ。


「播磨国風土記」がマジメに書かれた本だと分かるのは、ここに出てくる天皇が第12代の「景行天皇」以降に限られていて、先代の垂仁天皇以前の名前は出てこないことだ。


例えば「賀古郡」の記事には景行天皇の(いつものw)女漁りが出てくるが、そんな余裕は絶対安全圏でしか生まれてこないはず。


アメノヒボコ一族の問題が垂仁天皇の在位中に片付いたから、続く景行天皇の播磨巡幸も可能になったのだ・・・とすれば、風土記の歴史認識は正史の日本書紀と一致していて、齟齬がない。

これは資料としては、ヒジョーに頼もしいことだと、ぼくは思う。


【関連記事】播磨国風土記の「漢人」と「韓人」

(余談)欠史八代とハツクニシラス

竹野神社

(竹野姫を祀る竹野神社)

ここからは、余談。


それにしても日本書紀はつくづく面白い本で、異論はとりあえず併記してくるので、毎度、話をややこしくしてくれる(笑)。

丹波道主についても「彦坐王の子」と言いつつ、 「彦湯産隅命(ひこゆむすみ)の子」かも?と別伝併記で、後者をとれば、丹波道主は「竹野姫」の孫ということになってしまう。


だがいずれにしても、丹波道主のお爺さんは第9代「開化天皇」で間違いはない。

そして日本書紀は、丹波道主の娘「日葉酢媛命(ひばすひめ)」が、こちらも開化天皇の孫の第11代「垂仁天皇」の皇后になって、第12代「景行天皇」を産んだことを記録している。

新鹿島神宮誌

『新 鹿島神宮誌』

ところで「欠史八代」とか言って、開化天皇を架空の存在だと見たり、神武天皇と崇神天皇を同一人物に見たり、反皇室の方々のイチャモンは止むことがない。


だが上の系譜を見る限り、開化天皇から景行天皇への母方の血脈は、少なくとも神武天皇から崇神天皇までに流れた時間のなかに、くさびを打ち込んでいるようにぼくには思える。


つまりは、開化天皇なくして景行天皇なし。

日本書紀の編集者が「欠史八代」の実在に、何の疑問も持っていないことは明かだ。


だからよく言われる二人の「ハツクニシラス」の問題も、8世紀の宮廷人にはそもそも「問題」とは思われてはいなかったのだろう。

「初国知らす」天皇と、たたえられた天皇が二人いる。

初代神武天皇と第十代崇神天皇である。そこで神武天皇は実在せず崇神天皇が最初であろう、というような論が為されるのだが、(中略)

しかし作為的に神武天皇を立てたなら「初国知らす」という言い方を、崇神天皇には外すはずであり、二人にそういう言い方をするなら、そうする別の理由があったと考えた方がよい。


(『新 鹿島神宮誌』鹿島神宮・社務所/1995年)

そもそも、仮に「欠史八代」を捏造してまで皇統を長くみせようとした人がいたとして、わざわざ二人の「ハツクニシラス」で自分からその工作を台無しにするような間抜けなことを、するもんだろうか、人として。

すでに「万葉集」とかの表現レベルに達していたんですよ?  当時の宮廷人って。