邪馬台国への道(4)投馬国

(平塚川添遺跡)

朝倉市の「平塚川添遺跡」

平塚川添遺跡

甘木鉄道、甘木駅から南に1.5キロ。

見渡す限り田んぼの風景のなかに、弥生中期から古墳時代初期までつづいた弥生ムラ、福岡県朝倉市の「平塚川添遺跡」があった。

おっさん3人組は遠足の下見だと思われたのか、小学生向けのパンフレットを貰ってしまった(2022春見学)。

平塚川添遺跡

現在の遺跡公園は11ヘクタールもあって十分広いんだが、地元の研究者によれば当時、ここから東には広大な「小田・平塚遺跡群(仮称)」が広がっていて、ここは西の端っこの「新耕地」に過ぎなかったんだそうだ。


ブリヂストンの工場や民家があって発掘調査は難しいらしいが、「小田・平塚遺跡群」全体では何と450ヘクタールの規模が想定されてるという。


あの「吉野ヶ里遺跡」が40ヘクタール、奴国の国邑「須玖岡本遺跡」が100ヘクタールというから、「小田・平塚遺跡群」の巨大さはただ事ではない。

邪馬台国論争の新視点

興味深い試算をひとつ。

魏志倭人伝の「戸数」と考古学上の遺跡面積には、比例関係が見られるのだという(伊都国は倭人伝のネタ元『魏略』の数字に差し替え)。

一支国 3000戸 16ヘクタール

末盧國 4000戸 15ヘクタール

伊都国 10000戸 47ヘクタール

奴国 20000戸 100ヘクタール


これを元に、未調査の二大国を単純計算すると、こう。

投馬国 50000戸 190〜250ヘクタール

邪馬台国 70000戸 260〜350ヘクタール


とりあえず「小田・平塚遺跡群」のサイズがあれば、投馬国でも邪馬台国でも余裕で収納可能ということか。

以上、出典は『邪馬台国論争の新視点』(片岡宏二)。

「水行」の意味

弥生時代を拓いた安曇族

さて「不弥(ふみ)国」を発つ前に、もう一度「水行」の意味を確認しておきたい。

漢文の解釈は長い話になるので、もっとシンプルな説明を『弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝)から。

亀山さんによれば「水行」という表現は、『三国志』全65巻中では「魏志倭人伝」に3回出て来るだけの、あまり使われない言葉なんだそうだ。


そういう珍しい言葉に出会った場合、当時の官僚やインテリは「前例」を参照する。

すると司馬遷の『史記』全130巻に3回「水行」が出てきていて、そのいずれもが「陸上の沼や河川を対象にしたときの移動」を表現していることが分かるそうだ(『越絶書』でも同様だとか)。


陳寿の時代には書く方も読む方も、海を渡る「渡海」と、沼や川を移動する「水行」を、明確に区別できていたという話だ。

投馬国へは川をゆく

御笠川上流と宝満川

では「不弥国」を出発する。

『露見せり「邪馬台国」』(中島信文)によれば、「不弥国」はいまの福岡空港の辺りにあって、魏の使者の一行は、そこから船に乗って「御笠川」をさかのぼって、「投馬国」を目指したという。


川を進み、ムラを見つけては降りて習俗や産物を調査したり、接待されたり接待したり、また船に乗って次のムラへ向かったりと、魏使一行の旅はつづいていった。


川幅が狭くて流れが速いところでは、人間が岸から綱で船を引っ張って上流に向かう方法で。

それは明治初期までは普通に見られた光景だそうだ。


やがて今の太宰府市あたりで御笠川は北に向かうので、近くを流れる南行きの「宝満川」に乗り換える。

大人数、大荷物の使者団だけに、乗り継ぎ作業だけでも数日掛かったかも知れない。


なお、倭人伝に「投馬国」と「邪馬台国」までの距離が書かれないのは、それらが「不弥国」から近いからだろうと中島さんはいう。

全12000里のうち、残るはたったの1300里(約110キロ)だ。


そして「水行20日」と「水行10日・陸行1月」は、使者たちが移動した「距離」ではなく、滞在した「期間」のことだと中島さんはいう。


投馬国までは船を拠点に川辺に20日、邪馬台国では船に10日、陸上に30日を、使者たちは「滞在」してきたのだと。

投馬国はここだ

露見せり「邪馬台国」

それでは、中島さんが挙げる「投馬国」の評価条件を。

評価条件①=御笠川を遡る行程があり、不弥国から投馬国までの「移動距離」は500里(42キロ)。


評価条件②=投馬国は5万戸で、奴国の2倍ほどの平野や丘陵地帯がある。


評価条件③=南に大きな川と、7万戸を収容できる広い土地がある。


評価条件④=投馬国と邪馬台国の間に険しい山地はない。

投馬国所在の評価結果

というわけで、倭人伝の記述だけに基づけば、投馬国は「現在の城山から小郡市や大刀洗町周辺」に当たるだろうと中島さんは分析する。


さあ、もう邪馬台国は目の前だ!!

安本美典さんの説

邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!

と言いたいところだが、困ったことに中島説だと「邪馬台国九州説」の巨人、安本美典さんと結論があわなくなってしまうのだ。

安本さんは長年の研究の成果として、「平塚川添遺跡」がある朝倉市こそが、邪馬台国の中心地だと主張されているのだ。

もちろんご著書では、多くの根拠を挙げて多角的に分析されているんだが、万人向けにビジュアル重視だと、これか

弥生時代後期の箱式石棺の分布

出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!

卑弥呼の時代、北部九州では上級国民を「箱式石棺」を使って埋葬してきた。

上の地図の点々がその分布で、ベスト3は朝倉市(54)、北九州市(42)、福岡市(36)だ。


なーんだ、ホントに朝倉市って凄いんじゃん。

7万戸を誇る邪馬台国は、朝倉市で決まりだろ!!と最初はぼくも納得したんだが、よくよく見ると違和感もある。


まず、福岡市は(36)とあるが、点々の多くは西区と早良区で、そこは中島さんがいう「伊都国」の領域だ。

肝心の「奴国」の国邑「須玖岡本遺跡」があった春日市には、たったの(1)しかない。


それと「投馬国」もない。

邪馬台国につづく5万戸を擁する大国のお墓は、丸っと何処に消えてしまったのか。


確かに、朝倉市に「箱式石棺」が多いという事実には疑いの余地はないとしても、この分布が魏志倭人伝の記述に合致しているとといえば、ぼくにはちょっと判断できない。


例えば、小国の連合体だと上級国民が多いので箱式石棺が多くなり、中央集権的な大国だと少なくなるとか、・・・すべてを矛盾なく説明する方法はないもんだろうか。


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