古事記の「崩年干支」と古代天皇の実年代

古事記の「崩年干支」と実年代

住吉大社鳥居

1977年初版の『住吉大社』(住吉大社編)という本に、面白いことが書いてあった。


古事記には、第10代崇神天皇から第33代推古天皇までのうち、15代の天皇には「崩年干支(かんし)」が記載されてるが、その信頼性については長らく疑問視されていたのだという。


それが『住吉大社』刊行当時、そこに一石を投じたのが皇學館大学学長の田中卓博士で、博士は住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』なる古文書のなかに、古事記には欠けている第11代垂仁天皇の崩年干支「辛未」を発見した。


この「辛未」は西暦に換算すると311年にあたり、そのため問題だった第10代崇神天皇の崩年干支「戊寅」を318年から258年に繰り上げることができて、おおむね記紀に記載されている古代天皇の在位年代との整合性がとれたのだという。


田中卓博士が修正した一覧表がこれ。

古代天皇・崩年干支の一覧表

そう、見てのとおりで、これはぼくが古代史にハマるきっかけになった長浜浩明さんの計算に、かなり近い。


○崇神天皇は長浜説で241年崩御が、古事記だと258年。

○成務天皇は長浜説で350年崩御が、古事記だと355年。

○仲哀天皇は長浜説で355年崩御が、古事記だと362年。

○応神天皇は長浜説で410年崩御が、古事記だと394年。

○仁徳天皇は長浜説で428年崩御が、古事記だと427年。


あ、この件は昔からの古代史ファンなら常識の範疇なんだろうが、ニワカの悲しさで今ごろになって初めて知ったという次第、まことにお恥ずかしい限りです。

『住吉大社』

長浜浩明さんの計算と日本書紀

まぁせっかくなので、ぼくがなぜ長浜浩明さんの天皇実年代を基準にしてるかを書いとくと、それが日本書紀の記述とかなりの部分で合致してるから。

例えば一般的には作り話だとされている「四道将軍」。


第10代崇神天皇の政策だが、当時まだヤマトに従っていなかった吉備、丹波、北陸、東海に軍を出して教化したというもの。崇神天皇10年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろの出来事になる。


するとその時代の考古学に興味深い報告があって、3世紀の早い段階で、吉備や丹波に見られた独自性の高い弥生王墓の造営が、軒並み途絶えた事実があるのだという。


そしてそれから50年から100年の空白期を経て、今度はヤマト式の前方後円墳が築造されていったんだそうだ。


【関連記事】西暦212年頃、四道将軍・吉備津彦、西道へ

楯築墳丘墓

(吉備オリジナルの楯築墳丘墓)

また、出雲でも3世紀半ばまでには、出雲独自の「四隅突出型墳丘墓」の造営が終焉しているが、日本書紀によれば崇神天皇60年頃(長浜説で237年頃)のこととして、出雲王の「出雲振根」が四道将軍に攻撃されて、殺害されたという事件が起こっている。


日本書紀が記載しているヤマトの軍事行動のあとには、いつも現地から独自の弥生王墓が消えているわけで、ただの偶然だとは言い切れないようにぼくには思える。


そして田中卓博士の修正案(崇神258年没)をとれば、それは古事記でも概ね一致してしまうというわけだ。


【関連記事】西暦237年ごろ、出雲振根誅殺される

四隅突出型墳丘墓

(出雲オリジナルの四隅突出型墳丘墓)

神功皇后の実在と実年代

ところで『住吉大社』(学生社)で議論の中心になっているのは、もちろん、ご祭神である神功皇后の実年代についてで、古事記には神功皇后の崩年干支の記載はないが、本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定されている(長浜浩明さんの計算だと389年崩御)。


すると日本書紀の「神功皇后摂政52年」に百済から贈られたとある、369年製の「七枝刀一口」は、古事記が仲哀天皇の崩年だという362年のちょっと後に神功皇后の手に渡ったことになり、おおむね話が整合するというわけだ(370年没だとチト早すぎるが)。


なので神功皇后の実在については、『住吉大社』も鼻息が荒い。

一部の学者は、神功皇后の存在を否定するけれども、大軍を朝鮮半島に派遣する以上、当然、ヤマト朝廷に有力な指導者がなければならない。

そこでもし、神功皇后の存在を認めないとしても、その他に、とうぜん誰かそれに相当する有力な指導者を考えなければならない。


したがって、神功皇后を否定する者は、いったい誰を、当時のヤマト朝廷の指導者とするのか、それを明確にすべきであろう。

そのことなしに、 『日本書紀』や『古事記』の内容を浅く読んで、いたずらに神功皇后を抹殺しようとするのは、歴史家としては幼稚な見方といわねばならない。


(「外征指導者としての神功皇后」)

ちなみに日本書紀の「神功皇后摂政52年」は、日本書紀が『魏志(倭人伝)』から引用している「倭の女王」が「以死」という正始8年、すなわち神功皇后47年よりも後の年代の話になるので、日本書紀の編纂者はとうぜん、神功皇后と倭の女王(卑弥呼)が別人であったことは知っていたことだろう。


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戦前の実年代観

『房総の古社』(菱沼勇)

余談になるが、さすがに戦前ともなると皇国史観がフツーの感覚で、神武天皇の即位はBC660以外には考えられなかったかというと、実はそうでもなく、1974年発行の『房総の古社』(菱沼勇)という本によれば、神武即位は西暦元年ごろが戦前の「定説」だったらしい。

 その神武天皇の在位の年代については、明治の碩学・那珂通世は、精緻なる研究により、神武天皇の紀元元年は、だいたいにおいて西暦紀元元年と前後するころで、いくらも違わないという意味のことを主張し、戦前は長いあいだ、これが定説のようになっていたが、私はいまもこの那珂説は尊重すべきものと考えている。

最近は、神武天皇の即位を2世紀だ3世紀だと遅くみる傾向がある気がするけど、戦前の方が長浜さんの計算(BC70)によっぽど近かったというわけか。