三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」か

 〜畿内と九州の分布〜

卑弥呼の鏡とは

三角縁神獣鏡

2022年初夏に見学した「山梨県立考古博物館」に展示されていた「三角縁神獣鏡」の複製品。


「魏志倭人伝」には、中国の王朝「魏」に朝貢した邪馬台国の女王・卑弥呼が、「親魏倭王」の金印とたくさんのお土産を下賜されたことが記されている。

おみやげのうちの「銅鏡百枚」の候補が「三角縁神獣鏡」だ。


んで、この「三角縁神獣鏡」が畿内中心に出土していたことから、これぞ邪馬台国を継承した「ヤマト王権」が配布した「卑弥呼の鏡」であるとして、邪馬台国「畿内説」の有力な根拠とされてきた。

卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権

でもそれは本当なのか。

まずは、主に中国地方を専門に扱う考古学者、藤田憲司さんの本から、FACTを。

(『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』2016年)

畿内と九州でちがう「鏡」

九州島弥生後期後半の鏡出土地

(図25 九州島弥生後期後半の鏡出土地)

「図25」は、いわゆる「倭国大乱」の頃の、九州地方での「鏡」の出土を表したもの。


なんで九州しか出てないかと言えば、他は数が少なすぎてお話にならないからだ。

畿内などは、完形の舶載鏡は2面しかなく、しかもいずれも墳墓ではなく、集落遺跡からの出土なんだとか。


藤田さんによれば2世紀後半、朝鮮半島と九州では「鏡」は個人で使用されて「威信財」の側面もあったが、畿内では「銅鐸」が集団祭祀の共同使用だったように、鏡も「お守り」「魔除け」といった共同の生活道具でしかなかったそうだ。


九州と畿内では「金属器に対する接し方は、国を隔てた異文化というべき違いである」んだとか。

卑弥呼の時代の「鏡」の分布

庄内式並行期の鏡出土地

(図26 庄内式並行期の鏡出土地)

そして「図26」は、まさに卑弥呼が邪馬台国の女王だった時代の「鏡」の出土地で、依然として福岡・佐賀が他を圧倒している状況が見て取れる。


畿内だと、奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」が邪馬台国の本命だと喧伝されることが多いが、卑弥呼が亡くなったという248年ごろだと、255年±5年築造の「ホケノ山古墳」から出土した3枚しか、鏡の副葬はないらしい。

これはお粗末だ!


鏡の文化だけ見れば、「大和のヒミコ」が魏王に鏡を切望するとは考えられない、と藤田さんが言われるとおり、畿内は鏡とは縁が薄かった。

じゃあ、ヒミコはどこの人だったのか。


藤田さんによれば、それは北部九州で、玄界灘には面しておらず、三角縁神獣鏡を伴う前方後円墳が分布しない地域だろうとのことだが、まぁプロの考古学者で具体的な場所を公言する人はいないか。

誰がヤマトと組んだのか

纒向石塚古墳とホケノ山古墳

写真AC

ところで大和の「纒向遺跡」の界隈では、100m級の前方後円タイプの「弥生墳丘墓」自体は、3世紀初頭には姿を現していた。

210〜220年ごろ築造かと言われる「纒向石塚古墳」(96m)などだ。


ただ、その頃の畿内では鉄器もろくに普及しておらず、鏡の副葬もなかったわけで、250年ごろの「ホケノ山古墳」や、270年ごろ?の「箸墓(はしはか)古墳」とは、明らかに文化的な断絶がある。


藤田さんによれば、北部九州の首長層の誰かがヤマトと手を結ばない限り、その断絶は埋まらなかっただろう・・・とのことで、これは面白い視点だ。

宗像大社

(宗像大社)

じゃあヤマトと組んだ首長の候補はというと、まず挙がるのは「宗像(むなかた)氏」か。


日本書紀には崇神天皇60年(長浜浩明さんの計算だと237年ごろ)、出雲王「出雲振根(ふるね)」は筑紫の国に出かけていて、ヤマトからの神宝提出の命令を受けることができなかった、というエピソードがある。


この時、出雲振根が筑紫で誰と会っていたのかは書かれていないが、オオクニヌシの「妻」に「宗像三女神」がいることから、出雲と宗像の深い交流を思い浮かべるのは、狂人の妄想ではないだろう。


そして、出雲振根の所業をヤマトに報告して殺させた「弟」たちの存在から、当時の出雲がヤマトへの対応をめぐって内紛状態にあった可能性もゼロではないだろう。


ならば、彼らのうちの「親ヤマト」勢力が、宗像とヤマトを結びつけた可能性は、どうだろう。

志賀海神社

志賀海神社

もう一つの候補は、同じく海人族の「安曇(あずみ)氏」か。

ヤマトでは海人族の元締めとして、水軍の提督として重用されたが、重用には重用の理由があるはずだ。


・・・宗像か、安曇か、あるいは両方か?


三角縁神獣鏡と鉛同位体比チャート 〜卑弥呼の鏡(2)〜につづく