出雲と紀伊の二人のスサノオ
(ふたつの須佐神社)
伊太祁曽神社のイタケル
上は、和歌山市の郊外に鎮座する「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」の割拝殿を、太鼓橋から撮った写真(2020年夏参詣)。
田んぼや住宅に囲まれた社叢の中で、スサノオの息子「イタケル(五十猛神)」を祀る古社だ。
参詣したのはクソ暑い8月だったので深緑が鮮やかだが、11月の今ごろは紅葉が見事なんだろう。何しろ祭神のイタケルは「木の神」として有名だ。
イタケルの名前は、正史『日本書紀』の「正伝(本文)」には出てこない。
出てくるのは参考文の「一書(あるふみ)」の方だ。
本文では、高天原を追放されたスサノオは出雲へと降っていって、やがてオオナムチ(大国主神)を子に持つが、参考文の一書では新羅国の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降ったとある。それに同行したのが、息子のイタケルだ。
ところが新羅に天降ったスサノオは「此地、吾不欲居」、要は新羅は気に入らん!と吐き捨てて、さっさと海を渡って出雲に向かってしまった。
日本のネトウヨ第一号か?
同行したイタケルも、天降りの際に沢山の樹木のタネを持ってきたのに、なぜか「韓地」には植えないで、すべて日本の国土に植えてしまった。
うむ、ネトウヨの子もネトウヨだ。
日本書紀にはその後イタケルは、「有功の神」として紀伊国に祀られたとある。
イタケルが登場する「一書」は、もう一つある
「韓郷の島」には金銀があるのに、わが子の国に舟がないとマズいだろう、と考えたスサノオは、自分の体毛から樹々を生んだ。
文中には書いてないが、つまりは舟を作って「韓郷の島」の金銀を取りに行け、ということだろう。
樹々のタネはイタケルと二人の妹が、せっせと播いて回ったそうだ。
学者の本によると、こうした神話の背景には、ヤマトの朝鮮侵攻の水先案内人として活躍した、紀伊の海人族の存在があるそうだ。
和歌山、須佐神社のスサノオ
イタケルに続いては、父神のスサノオ(素戔男尊)にもお参りしなくてはなるまい。
阪和自動車道を南に進んで有田ICで降りて、有田川に沿って西に進むと、ぼくらの年代だと誰でも知ってる箕島高校があって、そのちょっと手前を南に折れると、スサノオを祀る「須佐神社」がある。
こちらの須佐神社には、いかにもスサノオ的なエピソードがあって、江戸初期の記録によると、はじめ社殿は海に面していたが、往来する船が恭謹の心を表さないと転覆させられたり壊されたりしたので、何と元明天皇の勅命(!)によって社殿を南向き(山向き)に作り替えられたんだとか。
目を合わせると襲ってくるスサノオ、恐るべし。
出雲国風土記のスサノオ
それにしても、スサノオってのは出雲の神さまじゃなかったか?
神話じゃなくてリアルな「地誌」として提出された「出雲国風土記」には、スサノオは「神須佐能袁命」とか「須佐乎命」とかいって、実在の人物として記録されている。
スサノオという王が実際に出雲にいたのは確かなことなんだろう。
ところがその「出雲国風土記」のスサノオには、神話のスサノオを想起させる要素が何もないという。
なるほど手元の角川ソフィア文庫をパラパラ見てみても、オイラの子供たちにこういう名前を付けたよ、とかオイラの気に入った土地にオイラの名前をつけたよ、とかオイラ葉っぱを頭に乗せて踊ったよ、とか、ほのぼのとした癒やし系エピソードに満ちていて、青山を枯らし、民を若死にさせる破壊神スサノオのイメージはない。
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この点について、ぼくらの愛読書『古事記外伝』(藤巻一保)の結論はこうだ。
風土記で描かれるスサノヲには、「啼きいさち」る神や、祓われる神としての顔は、みじんも見えない。
農業や冶金にかかわる神の要素はあるけれど、暴風雨神や荒神的な要素もない。
このスサノヲと、『古事記』のスサノヲを同じ神とするのには無理がある。
そこを無理矢理つなげあわせようとする作業は、筆者には空しい砂上の楼閣づくりに見える。
(「出雲という謎」)
スサノオの旅の目的
つまりは「別の神」ということだ。
出雲のほのぼのスサノオと、神話の荒くれスサノオは「別の神」だと考えた方が通りがいいと、『古事記外伝』には書いてある。
じゃあ日本書紀「神代」で、大海をとどろき渡らせ、山岳を鳴りひびかせて高天原に向かったと言うスサノオは、一体どこの神なんだろう。
日本書紀の正伝と一書を綜合してみれば、スサノオの目的は「吾欲従母於根国」つまりはイザナミのいる「根の国」に行きたいということ。
で、そのイザナミは「紀伊国の熊野の有馬村に葬った」とあるんだから、スサノオが向かったのは紀伊国、和歌山方面になるんだろう。
なるほど、神話のスサノオのイメージとして指摘される「 暴風雨」や「大地震」は、島根県にはチト合致しないが、和歌山県ならバッチリだ。
一書のなかには、イザナギがスサノオに「青海原を治めよ」と命じた異伝もあるが、出雲の須佐神社は本当に山の中で、海のイメージなどは全くない。
一方、紀伊の須佐神社は漁港にほど近く、奉納された絵馬はほとんどが漁業に関係したものらしい。
また、紀伊の須佐神社が「名神大社」で「従一位」だったのに比べて、出雲の須佐神社が「小社」のうえ「神階」もなかったという格差もある。
スサノヲ崇拝の原郷
で、こうしたあれやこれやを全て検討した上で、神話学者の松前健さんは「スサノヲの崇拝の真の原郷」は「紀伊の須佐」だと断言しておられる。
あちこちの本とかwikiとかで見かけるので有名な学説なんだろうけど、せっかくなので長めに引用しておく。
この神は古く紀伊の須佐付近の漁民、紀伊海人の信奉していた海洋的な神なのであった。
しかも海の果ての根の国から来訪し、豊饒をもたらし、若者に成年式を施していくマレビト神なのであった。
そしてこの根の国の霊物という内性のゆえに、高天原神話における幾多の罪穢の元凶である邪霊と同一視され、また日神の魂を奪い取る悪神とも同一視され、また足の不自由なヒルコとも混同されたのである。
また海にゆかりのある霊物であるがゆえに、この神の分治の領域は海と定められたし、また浮宝としての船の守り神とされ、さらにその船の用材の供給者として紀伊の国の樹木神五十猛神の親神とされ、樹木の管理者・生成者とされたのであろう。
(『日本の神々』松前健/1974年)
なるほど、もう一人のスサノオは、出雲から根の国(紀伊)に移動したのではない。
最初から紀伊に、いたというわけか。