三角縁神獣鏡と鉛同位体比チャート

〜卑弥呼の鏡(2)〜

神原神社古墳の三角縁神獣鏡

神原神社古墳

「魏志倭人伝」によると、西暦238年(景初二年)、邪馬台国の女王・卑弥呼は「魏」の皇帝に朝貢の使者を送り、ドレイ10人の見返りとして莫大な財宝を手に入れたという。


その財宝の中には「銅鏡百枚」が含まれていて、昭和の頃から「三角縁神獣鏡」がその第一候補として考えられてきた。


三角縁神獣鏡は、50年前だと全国で100枚も見つかっておらず、畿内中心に分布していたことから、邪馬台国「畿内説」の最大の根拠とされてきたそうだ。


つまり、畿内にあった邪馬台国を引き継いだ「大和政権」が、"卑弥呼の鏡"を配布したのだという話だ。

景初三年銘三角縁神獣鏡

今では「百枚」どころか約600面も出土してしまった三角縁神獣鏡だが、中でも最も重要とされる一枚は、なぜか畿内からは遠い遠い遠い、出雲の地で見つかっている。


1972年、雲南市の「神原神社古墳」から出土した三角縁神獣鏡には、魏の年号「景初三年」(239年)の銘が刻まれていて、おおお!これぞまさに魏の皇帝から卑弥呼がもらった「百枚」のひとつに違いないっ!!と、大騒ぎになったんだそうだ。

神原神社

ただ、不思議なことに、邪馬台国の使者が魏を訪れていた景初二年〜正始元年の銘を持つ三角縁神獣鏡は、これを含めて4枚しか見つかっておらず、見つかった場所も畿内を遠く離れた豊岡市、高崎市、周南市の小さい古墳ばかり。


さらにはそれらが古墳に副葬された年代も、西暦350〜450年と卑弥呼よりずっと後の時代で、「紀年銘鏡」だからといってヤマトが大切に利用したとは、今一考えにくい状況だったりしたのだった。

民間人、陳さんの鏡

景初三年銘の本文

出典「三角縁神獣鏡の銘文」邪馬台国の会)

不思議なことは他にもある。

「景初三年」につづいて刻まれている、銘の本文だ。


「鉛同位体比チャート」の研究から、"三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡にあらず!"(全て国産だ)と主張されている藤本昇さんは、景初三年鏡の銘文をこう訳している。

卑弥呼の鏡 鉛同位体比チャートが明かす真実

景初三年、私、陳がこの鏡を作りました。私は都の鏡師でしたが、こちらに亡命して来ました。

私が作ったこの鏡を持てば、役人であれば三公の地位に出世し、母であれば子や孫に恵まれ、寿命は金石のように長生きできます。

(『卑弥呼の鏡 鉛同位体比チャートが明かす真実』藤本昇/2016年)

何と!

魏の皇帝が卑弥呼に、汝の国民に見せびらかして自慢しろ、といって与えた財宝「三角縁神獣鏡」には、一介の民間人の鏡職人、陳さんの「自己紹介」が刻まれていたというわけか。

これは不思議だ。

鉛同位体比チャートが明かす真実」

さて藤本さんの手法は、銅鏡に含まれる4種類の「鉛同位体」の混合比率を、四軸のレーダーチャート上で比較していくというもの。

同じ時代に同じ材料から作られた銅製品は、だいたい同じようなチャートを描くという。

弥生時代鏡の鉛同位体比チャート

図表5A 弥生時代鏡の鉛同位体比チャート

まずは「卑弥呼の鏡」より前の時代のチャートが、「図表5A 弥生時代鏡の鉛同位体比チャート」だ。


上から4つ目は「銅鐸(どうたく)」のチャートだが、それを含めても似たようなヨコ長の図形を描いていて、おおむね同じ材料から作られたことが一目瞭然だ。


んで次の「図表7」が、4面の三角縁神獣鏡と、確実に中国製だと判明している「魏鏡」「呉鏡」を同じチャートで比較したもの。

三角縁神獣鏡と中国鏡の鉛同位体比チャート

図表7 三角縁神獣鏡と中国鏡の鉛同位体比チャート

タテ長の2つが中国鏡で、残りの平行四辺形が三角縁神獣鏡だ。

ま、見てのとおりで残念ながら、三角縁神獣鏡は中国鏡とはいえないようだ。

鶴山丸山鏡の鉛同位体比チャート

図表24 鶴山丸山鏡の鉛同位体比チャート

図表24は、岡山県の4C後半の円墳「鶴山丸山古墳」(直径45〜-54m)から出土した「仿製(ぼうせい)」、つまり国産と見なされる三角縁神獣鏡他のチャート。

一つの古墳から出てきただけあって、種類は違っていても、材料は同じもののようだ。

景初三年鏡と正始元年鏡の鉛同位体比チャート

図表23 景初三年鏡と正始元年鏡の鉛同位体比チャート

んでこれが、邪馬台国の使者が魏から持ち帰ったという"卑弥呼の鏡"(+α)のチャート。


・・・んー、見事にバラバラだ。


それにこのチャートって、ヨコ長ひし形の弥生鏡とも、タテ長ひし形の漢鏡とも違って、むしろ鶴山丸山鏡の「仿製」(国産)のチャートに近くないか。

城の山鏡の鉛同位体比チャート

図表25 城の山鏡の鉛同位体比チャート

んじゃ、「舶載(はくさい)」(中国製)のチャートも。


図表25は、鶴山丸山古墳と同時代の4C後半に、兵庫県朝来市に築造された円墳「城の山古墳」(直径30〜36m)から出土した舶載(中国製)の三角縁神獣鏡他のチャート。


不思議なことに、舶載なのに、仿製の鶴山丸山鏡とそっくりだ。

ってことは、これら舶載も仿製も、どちらも同じ材料から作られたってことだろうか。

舶載と仿製

鏡の古代史

それで改めて「舶載」と「仿製」って、どうやって見分けるかを調べてみてビックリした。

何と、エラい学者先生の「主観」による分類らしい。

 すでに述べているように、三角縁神獣鏡は全体で約600面弱の事例が知られている。

文様が精緻な一群が「舶載」三角縁神獣鏡、文様が粗雑化し変容が進んだ一群が「仿製」三角縁神獣鏡として区分されており、かつては前者を中国製、後者を日本列島製とみるのが一般的であった。

特に「舶載」三角縁神獣鏡については、銘文の用字や卑弥呼が魏に使いを送った「景初三年」(239年)や翌年の「正始元年」(240年)といった紀年銘を持つ鏡の存在から、魏の時代に製作されたことが早く大正年間に富岡謙蔵によって指摘され、中国製説の有力な根拠とされてきた。

以来、梅原末治や小林行雄の研究をはじめ、邪馬台国畿内説と結びつく形で、卑弥呼の「銅鏡百枚」の最有力候補として位置づけられてきたのである。

(『鏡の古代史』辻田淳一郎/2019年)

うーむ、何かもっとハイテクな方法による区分かと思ってたが、見た目なのか。

それだと藤本さんの、数値を元にしたチャート比較の方が、真実に近いようにぼくには思えてしまう。


ちなみに辻田さんは本の中で、卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の候補として「四葉座内行花文鏡や方格規矩四神鏡、各種の画文帯神獣鏡(特に環状乳神獣鏡・同向式神獣鏡)などの大型鏡」を挙げられている。


さすがに今どき、三角縁神獣鏡を"卑弥呼の鏡"だと考える学者はいないんだろう。

それより問題なのは、卑弥呼の時代まで九州を中心にしていた鏡文化が、卑弥呼の没後から4世紀初頭にかけて、何故、その素地のなかった畿内にシフトしていったか、のようだ。

もう一つの意見は、弥生時代後期以前には近畿地域がその後の政治的中心地となる素地が少なく、弥生時代終末期から古墳時代にかけて急速に中心性が高まり、いわば弥生時代とは不連続な形で古墳時代的な秩序が出現したという見方である。

辻田さんはプロの考古学者なので、

「三世紀中葉に」

「中国鏡の流入の窓口が近畿地方に転換し」

「大量の中国鏡および三角縁神獣鏡が奈良盆地に流入し」

「近畿地域がそれ以後長く政治的・文化的中心となる上での大きな契機になった」

云々と慎重に書かれているが、藤本さんの「鉛同位体比チャート」が導く結論はもっとシンプルだ。


三角縁神獣鏡は、250年ごろまでに畿内に誕生した政権が、中国から亡命してきた鏡職人の手で大量生産した銅鏡である。

銅鐸鋳型の出土遺跡の分布

(出典『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』田中義昭/2008年)

「図39」は、弥生時代の「銅鐸」鋳型の出土地。

近畿はもともと銅鐸の一大生産地で、滋賀県「野洲町」からは高さ144cm、重さ45kgという超巨大銅鐸も出土している。


また、近畿は九州に比べると「鉄鏃(鉄のやじり)」の出土が極端に少ないが、その反面「銅鏃(銅のやじり)」については近畿と東海を合わせると、九州の数を遙かに凌駕してるんだそうだ。

(『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)


というわけで、仮に250年頃までに畿内に(邪馬台国ではない)政権が誕生していて、なぜか銅鏡を大量に作りたくなったとして、そいつを実現するための技術と素材は、すでに十分に確保されていたんじゃないかと、ぼくには思えるのだった。


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