河内の「中田遺跡群」は邪馬台国か?

〜『ヤマト王権の古代学』坂靖〜

河内の「中田遺跡群」は邪馬台国か?

纒向遺跡

(纒向遺跡 写真AC)

邪馬台国の候補地のひとつとされる、奈良県桜井市の「纒向遺跡」。

その遺跡規模は日本列島でも最大級の3平方キロで、王の居館は2500平方メートルに達したという。


ただし、それはいわゆる「布留式期」といわれる4世紀代の話で、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなってから100年ほど後の状況。


卑弥呼が存命中だった「庄内式期」の纒向は、まだ遺跡範囲も狭くて、せいぜい1平方キロほどだったと、長年「橿原考古学研究所」にお勤めされた坂靖(ばんやすし)さんは書かれてる。

『ヤマト王権の古代学』

というか坂さんによれば、卑弥呼の時代の畿内には、纒向なんかより遙かにデカい大規模集落が存在してたのだという。


それが、大阪市平野区から八尾市にかけて、南北3.5キロ、東西1キロに渡って広がっていたという「中田遺跡群」だ。


邪馬台国時代の畿内の先進地域は、大和でなく河内にあったんだそうだ。

この辻地区を含めた庄内式期の纒向遺跡の範囲は、約1平方キロほどである。


西日本の集落遺跡のなかでは比較的大型といえるだろうが、大和川が河内湖に流入するあたりの河内平野には、これにまさる庄内式期の大規模集落遺跡がある。


大阪市平野区から八尾市にかけて萱振遺跡・東郷遺跡・小阪合遺跡・中田遺跡など、別々の遺跡名がついているが、これらはすべて庄内式期の一連の集落遺跡である(図34)。


南北3.5キロ、東西1キロにわたってつながっている。これらは一括して中田遺跡群と称されるべきものだ。


また、そのすぐ西側にも大阪市の加美遺跡と八尾市の久宝寺遺跡があり、ここでも庄内式期の集落域と墓域が隣接して展開している(大阪府立弥生文化博物館2015)。


近畿地方における庄内式期の先進地域はここである。


(『ヤマト王権の古代学』坂靖/2020年)

河内南部における大規模集落

(河内湖南部における大規模集落 出典『ヤマト王権の古代学』)

坂さんと同じ、橿原考古学研究所出身の関川尚功さんも「邪馬台国大和説」を否定されているように、地元である奈良の考古学者には纒向遺跡の実態を知れば知るほど、それが「魏志倭人伝」の邪馬台国の遺跡だとは思えなくなるケースがあるようだ。


○例えば纒向遺跡には、魏志倭人伝がいう女王のための「宮室・楼観・城柵」などは存在しない。

「環濠」もない。


○また、邪馬台国が朝貢したという「魏」や「西晋」との交渉を実証する「楽浪系土器」は、九州から東は「松江市」までの範囲からしか出土していない。


○それと、卑弥呼のお墓とも言われる桜井市の「箸墓古墳」についても、当時の帯方郡の太守クラスでさえ、一辺30m程度の墳墓だった時代に、属国の女王が280mの前方後円墳というのでは、あまりに較差が大きすぎる。

などなど。

考古学から見た邪馬台国大和説

「おおやまと」と「さき」

ところで坂さんの本はタイトルの通りで(邪馬台国はオマケで)、そのテーマは纒向遺跡にはじまる「ヤマト王権」の発達史だ。


本では、纒向遺跡と周辺の巨大古墳群からなる地域を「おおやまと」と呼んでいるんだが、それが最大化した4世紀半ば、実は奈良盆地北部のいまの奈良市にあたりには、佐紀古墳群を残した「さき」の政権も並立していたんだという。


その中心となるのが奈良市の「菅原東遺跡」で、集落全体の範囲は9000平方メートル、王の居館は1900平方メートルと同時期の纒向遺跡には劣るものだが、結局は4世紀の後半に「おおやまと」が「さき」を取り込んで「一体化」したことで実力が増大して、河内平野にも「進出」できるようになった・・・というのが坂さんの見立てだ。


つまり坂さんは、河内王朝説の論者ではない。

箸墓古墳

(箸墓古墳 写真AC)

「ふる」と「わに」

「おおやまと」と「さき」の連合体には、奈良盆地の他の勢力も加わっていたという。


一つは、天理市を流れる布留川(ふるかわ)流域の「ふる」の勢力で、弥生時代の遺跡面積は20万平方メートルほどだったものが、5世紀後半には3平方キロの「布留遺跡」にまで拡大する。


域内にある日本最大の前方後「方」墳、4世紀前半に築造された墳丘長183mの「西山古墳」は「ふる」の首長のお墓だと考えられるそうだ。


「ふる」の勢力は、のちに「物部氏」と呼ばれるようになる。

西山古墳

(西山古墳 天理市公式サイト)

もう一つが「ふる」の北側に広がる「わに」の勢力で、5世紀前半に2平方キロの規模に達した「和爾遺跡」の南側には、4世紀半ばに築造され、紀年銘大刀の出土で知られる「東大寺山古墳」(140m)をはじめとした前方後円墳群がある。


「わに」はもちろん、のちに「和珥氏」と呼ばれた人たち。


(※ 他に大伴氏の「そが」と葛城氏の「かづらぎ」もあるが割愛)

島の山古墳

(島の山古墳 写真AC)

津堂城山古墳、河内へ

4世紀の終わり頃に、「おおやまと」の主導で「一体化」したという奈良盆地の勢力が、決して「対立」を「征服」によって解消していったわけではないことを表すのが、そのころ造られた4つの巨大古墳だと坂さんはいわれる。


それは西から、藤井寺市の「津堂城山古墳」、北葛城郡の「巣山古墳」、磯城郡の「島の山古墳」、そして奈良市の「宝来山古墳」。


これらは4世紀の終わり頃、同じ時期に、同じような200m級の大きさで、同じような墳形で造られたもので、奈良盆地を制した「おおやまと」の実力の大きさを物語っているという。


特に、「津堂城山古墳」の立地はそののち天皇陵の中心地となる「古市古墳群」のなかにあるわけで、地域王権に過ぎなかった「おおやまと」の王が、いよいよ「倭国王」へと成長していく第一歩(橋頭堡?)を意味していたようだ。

五大古墳群の展開と消長

(出典『天皇陵古墳を歩く』今尾文昭)

そのころの「カワチ」

ところで諸説ある「河内政権論」の中には、このころ河内平野で急成長を遂げた新興勢力が奈良盆地に「侵攻」して、在地の旧勢力を滅ぼして政権を奪った・・・というものがある。


それじゃーその前段階、4世紀後半のカワチの状況はどうだったのかというと、弥生時代に列島最大級の規模を誇った「中田遺跡群」の勢いは、すでに失われて久しかったようだ。

中田遺跡

(中田遺跡 八尾市観光データベース)

カワチで最も大きい羽曳野市の「尺度遺跡」の方形区画(王の居館)は1380平方メートルと纒向遺跡の半分ほどで、地域で最大の古墳も150mの「松岳山古墳」が目立つ程度。


「おおやまと」が津堂城山古墳という「楔」を打ち込んだころ、カワチの有力地域集団はすでに「断絶」していたと、坂さんの本には書いてある。

摩湯山古墳

(摩湯山古墳 岸和田市公式サイト)

その辺の事情は、のちに「百舌鳥古墳群」が造営された「イズミ」地域も同じようで、和泉市や岸和田市には集落跡や鍛冶や埴輪の遺構も見つかっているものの、それらは5世紀に古市古墳群の造営が始まるころには「衰退」してしまっていたそうだ。


なお、岸和田市には4世紀末築造の「摩湯山古墳」200mがあるが、それは「さき」の佐紀陵山古墳の「相似型」として造られていて、イズミの在地勢力が独自に自力で築造したとは、チト考えにくいもののようだ。


どうやら4世紀後半の河内平野に「おおやまと」連合を凌駕するような勢力が育っていたといえるような根拠は、見当たらないというのが実情か。

『天皇陵古墳を歩く』

もちろん、橿原考古学研究所出身の研究者のなかには、「河内政権論」を支持される先生もいらっしゃる。


『天皇陵古墳を歩く』(2018年)の著者・今尾文昭氏は、奈良市の「菅原東遺跡」を「おおやまと」と連携した「さき」の王の居館だとし、大和から河内へは政権が「移動」した、つまり「おおやまと」連合が河内平野に「進出」した、という辺りまでは坂さんと同じ。


ところが、そこから唐突に「政権交替」の話が飛び出てくる。

考古学の立場からの河内政権論は、大型前方後円墳が大阪府の百舌鳥・古市古墳群に存在する説明として、大和から河内へ政権の中心地が移動したと考えるものです。


さらに、ここに政権交替があったと考える論です。


これは、大型前方後円墳の分布状況と古墳の編年を根拠にしています。


文献史学の史料批判と考古学成果の双方から、今後もその成否について議論しなくてはなりません。


(「天皇陵古墳を歩く』今尾文昭/2018年)

もちろん本は最後まで読んでみたんだが、じゃあ誰から誰に「政権交替」したのか、についての説明は特になかった。


4世紀後半に、同時にいくつもの200m級古墳を築造できた「おおやまと」の実力があればこそ、古市や百舌鳥に400mオーバーも可能だったと、ぼくなんかは単純に考えてしまうわけだが、それとも「おおやまと」の他にもそれを凌ぐ大勢力が、河内のどこか?にいたということなんだろうか。