邪馬台国への道(3)不弥国

(宇美八幡宮と光正寺古墳)



魏使の一行、御笠川をいく

宇美八幡宮

応神天皇の御降誕地と伝わる、福岡県宇美町の「宇美八幡宮」。


新井白石に始まって、「宇美」は魏志倭人伝の「不弥(ふみ)国」に比定されることが多いが、弥生時代の遺物は何も出土したことがないという。

考古学者の原田大六氏によれば「あきれるほどの無文化状態で、ここを三世紀に繁栄した不弥国に擬することは憚られる」んだそうだ。


『露見せり「邪馬台国」』では、不弥国は那珂川以東から御笠川に挟まれた扇状地だと分析されていて、大雑把に言えば、いまの「福岡空港」のあたり。

そこから魏使の一行は船に乗って、御笠川を(倭人の調査をしながら)のんびりと遡っていったようだ。

「槨」のない光正寺古墳

光正寺古墳

弥生遺跡はないとしても、宇美には立派な古墳があった。

古墳時代前期の築造と考えられる前方後円墳、全長54mの「光正寺古墳」だ。


この時期の九州の前方後円墳には面白い特徴があって、纒向型は円と方が2:1だが、九州では3:2の比率で作られているんだそうだ。

九州男児の気骨とか気概なんだろうか、理由はもちろん不明だ。


それと「箱式石棺」。

魏志倭人伝には、「倭人」は遺体を「棺」には納めるが「槨(外箱)」は作らない(其死、有棺無槨)と記されていて、光正寺古墳はまさにその状態。魏の使者が見たとおりの埋葬スタイルを継承している。


・・・だがどうやら日本列島は、「倭人」の住む「倭国」だけではなかったようだ。

「槨」をもつ弥生墳丘墓も、九州より東には存在しているからだ。

「槨」のある弥生墳丘墓

西谷3号墓

まずは、島根県出雲市の「西谷3号墓」。

こちらは発掘の結果、木棺の外側に「木槨」が確認されている。斜面には葺き石(貼石)が施されている。


出土した土器から、築造年代は2世後半ということで、卑弥呼の時代より少し前にあたる(いわゆる倭国大乱のころ)。

楯築墳丘墓

西谷3号墓と同じ頃、岡山県倉敷市につくられた「楯築(たてつき)墳丘墓」。

こちらも木棺の外側に、それを包む「木槨」が確認されている。全長72mは弥生時代では最大。

埴輪の元になった「特殊器台」を備える。

萩原2号墓

「槨」のある墳墓は海を渡る。

徳島県鳴門市の「萩原2号墓」は「石囲い木槨」をもち、築造年代は2C末〜3C初頭で、モロに卑弥呼の時代に被る。

つづいて造られた「萩原1号墓」の木槨構造は、奈良県桜井市の「ホケノ山古墳」の「祖型」だという。

「画文帯神獣鏡」を副葬する点も同じだ。

ホケノ山古墳

そして、奈良県の纒向古墳群のひとつ「ホケノ山古墳」。「槨」の大きさは10mx6mx1.5m。葺き石あり。


考古学者の清水眞一さんによれば、「槨」の中から出土した土師器装飾壺と濠の底の土器類の年代は、纒向3式(250〜270年)とのことだ。

副葬品に「画文帯神獣鏡」。

前方後円墳国家の誕生

というわけで、魏の使者が「倭国」には「棺あって槨なし」という報告を持ち帰っていたころ、出雲ー吉備ー讃岐ー大和のラインには「槨」のある首長墓が造営されていた。


どうやら魏使が「倭国」と呼ぶエリアには、出雲・吉備・讃岐・大和などは含まれていなかったらしい。

前方後円墳とはなにか

やがて、倭国「以外」の首長墓の特徴は集約されて、一つの像を結んでいった。

「前方後円墳国家」の誕生だ。

九州北部は中国鏡をはじめとした多彩な品々の副葬、出雲は墳丘斜面への葺石(貼石)、丹後は刳り抜き式木棺や鉄器の副葬、吉備は円筒埴輪につながる特殊器台形土器や特殊壺形土器の樹立、近江や東海は前方後方形の墳丘など。


それら弥生墳墓の諸要素を統合して、斉一度を高め、大型化によっていっそうのビジュアル化を図った墳丘様式が、三世紀中ごろに成立した前方後円墳である。

(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄/2019年)

訂正。

遅ればせながら九州北部の「倭人」たちも、銅鏡を抱えて畿内まで馳せ参じてきていたようだ。

めでたし、めでたし。

安本美典さんの説

データサイエンスが解く邪馬台国

などと和んでいたら、異論ありだ。

有名な古代史研究家の安本美典さんによると、ホケノ山古墳から出土した「画文帯神獣鏡」は、鉛の同位体比の測定によって、「長江」流域系の銅原料から作られたことが判明しているんだそうだ。


これは「卑弥呼の鏡」として有名な「三角縁神獣鏡」も同じことで、それらは三国時代の「呉(ご)」が滅んだ西暦280年より後になってから、「晋(しん)」の首都・洛陽でも流通した素材なので、3C後半の畿内の古墳から出土することはあり得ないんだそうだ。


つまりホケノ山古墳は、4Cになってから築造されたはずだ!ということだ。

三角縁神獣鏡の鉛同位体比の分布

出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!

うーむ。

でも、仮に、ホケノ山古墳が4Cの築造でも畿内の大勢には影響がないけど、九州の情勢はガラッと変わってしまうことになるな。


現在、3C中〜3C末の築造に想定されてる前方後円墳、「赤塚古墳(宇佐市)」「石塚山古墳(苅田町)」「那珂八幡古墳(博多区)」などの築造年代は、「三角縁神獣鏡」が出土してるという理由で、軒並み4C前半以降に遅らされることになる。

何だか一気に後進地帯にされてしまって、困る人もいるんだろう。


あ、ぼく的には、西暦300年頃の景行天皇の九州巡幸の結果、北部九州に前方後円墳が造営されるようになった——の方が話に無理がなくなるので、安本説に賛成だ。


邪馬台国への道(4)投馬国 (平塚川添遺跡)」につづく