邪馬台国への道(2)奴国

(博多湾と有明海の安曇族)

工業立国「奴国」

住吉神社

福岡県博多区で住吉三神を祀る、筑前国一の宮「住吉神社」。

何とJR博多駅から、歩いて10分もかからないという好立地だ。

弥生時代、神社の北側のエリアには、魏志倭人伝にでてくる「奴国」の港が広がっていたんだそうだ(博多遺跡)。

露見せり邪馬台国

邪馬台国の時代に、「伊都国」から東南に直線距離で5〜6キロ、室見川と那珂川に挟まれた扇状地と低い丘陵地帯の領域に「奴国」はあったと、中島信文さんの『露見せり「邪馬台国」』はいう。


その領域は「弥生銀座」とも言われる遺跡の宝庫で、わが国最大の青銅器工房群を中心に、鉄器やガラス製品の工房がズラリと並ぶ大工業地帯は、魏志倭人伝のいう「倭国」の心臓部だったという。


交易でならした隣の「伊都国」と並んで、邪馬台国にとっては最重要地域だったことだろう。

(出典『奴国の王都 須玖遺跡群』井上義也/2024年)

邪馬台国時代の奴国の中心地が、春日市の「須玖(岡本)遺跡群」。

その範囲は、南北2キロ以上、東西1キロ以上で、確認された遺跡数は70を超える。


地元の考古学者・井上義也さんによれば、青銅器の大量生産には継続的な原材料や工人の確保が必要なわけで、ここは「奴国王」が統括した「官営工房」だろうとのこと。

ただ不思議なことに、奴国で使われた青銅器生産の鋳型は「石製」で、もう一つの大生産地・近畿で使われていた鋳型は「土製」なんだという。

近畿では、送風管にも「土製」を使ったが、これも奴国ではみられないのだとか。


つまりもしも邪馬台国が近畿にあったのだとしたら、なぜ両者が別の方法で青銅器を生産していたかには理由が必要になる。伊都国の「一大率」から、報告なり提言なりはなかったんだろうか。

※九州説の場合は、近畿には魏志倭人伝には出てこない別の政体があったという説明で十分だろう。


ちなみに奴国が鋳型に使った石材は、須玖遺跡の南方40キロ、八女市の矢部川流域から運ばれてきたものだそうだ。

奴国の「那珂八幡古墳」

(出典「福岡市経済観光文化局」公式サイト)

福岡県では最古となる前方後円墳、博多区の「那珂八幡古墳」(86m)。


第二主体から三角縁神獣鏡が出土したことで有名だが、墳丘自体の築造年代については、地元では西暦250年ごろと考えられているようだ。むろん、弥生時代最後の「奴国王」のお墓だろう。


不思議なことに考古学者の久住猛氏によれば、奴国では、この「那珂八幡古墳が築かれる前後から畿内系の土器が主体になり、大和の土器の影響をリアルタイムに受けるようになる」という。


どうやら奴国と「纒向」は、邪馬台国の女王・卑弥呼が没した頃になって、ようやく深い関係を持つようになったようだ。


ただし、この関係は纒向から奴国への一方通行だったようで、纒向から北部九州の土器は出土していないんだそうだ。

(出典『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』石野博信/2010年)

なお那珂八幡古墳の墳丘は、いわゆる「纒向型前方後円墳」の帆立貝タイプではなく、後円と前方が8:5の比率になる「(纒向)勝山古墳」(115m)との4分の3相似形が指摘されている。


西暦250年頃、纒向から奴国に、前方後円墳と畿内系土器がパッケージになって伝えられたという流れなんだろうか。

奴国を創った「安曇族」

安曇族と徐福

ところで亀山勝さんの『安曇族と徐福』(2009年)によれば、「奴国」を築き上げたのは、博多湾を拠点にした海人集団「安曇族」だそうだ。


海人族といっても、ただ漁労活動をしていただけではない。

元々は中国大陸の「呉」出身だったから、安曇族は大陸との交易を通じて「工業立国」に成長できた。


魏志倭人伝の元ネタになった『魏略』の逸文には、西暦57年に後漢の光武帝から金印をもらった奴国の使者が、自分たちを「太伯」の末裔だと言ったという記事がある(自謂太伯之後)。


その「太伯」が、今の上海あたりに建てた国が「呉(句呉)」だ。

ただその「呉」は春秋時代の紀元前473年、宿敵の「越(えつ)」に滅ぼされ、国を失ってしまう。


このとき、呉人の逃亡先のひとつになったのが、対馬海流の川下にあたる九州北部だった。

志賀島を拠点に選んだ呉人たちがもたらしたものには、温帯ジャポニカ米や養蚕、鵜飼いの技術などがあったそうだ。

「臥薪嘗胆」と「入郷而従郷」

航路略図

さて、そうして志賀島を拠点にした呉人たちは、祖国再建にむけて「臥薪嘗胆」、大陸と交易して力を蓄えつつ、帰りの船には大陸からの亡命者をのせてきて、日本各地への入植に手を貸したという。


ここで亀山説が面白いのが、大陸からの農耕民の入植は、「アヅミ地」と亀山さんが呼ぶ、一定の条件を満たす場所に限られたため、それが「多点分散型」に広がったという点。


それと、呉人が敬う「太伯」のモットーが「入郷而従郷(郷に入っては郷に従え)」だった点。

太伯は大国「周」の王族だったが、江南に落ちると短髪・入れ墨の現地人と同じ姿に変えたそうだ。


で、これらは「まだら」に広がった弥生時代の農耕をうまく説明しているし、今の日本人の言語やDNAに呉人の影響が見られないことも説明していると、ぼくは思う。


呉人に連れてこられた大陸からの入植者は、少しずつ、ゆっくりと、縄文人の社会に融合していったということだ。


※安曇族については「諏訪の安曇族と出雲族」などへ

博多湾と有明海を最短距離で!

風浪宮

亀山さんが九州における安曇族の、もう一つの拠点だったというのが、有明海に近い筑後川の河口付近に鎮座する大川市の「風浪宮(ふうろうぐう)」だ。

わたつみ三神を祀り、代々、阿曇氏が奉斎してきた神社だ。


でも博多湾と有明海にふたつの拠点となると、平戸とか長崎とかをはるばる迂回したのかと思いきや、昔はもっとシンプルに行き来ができたのだという。

それはズバリ、「御笠川」と「宝満川」、2本の河川を使った移動だった。

 村山健治氏の『誰にも書けなかった邪馬台国』には、次のような貴重な証言が紹介されている。

明治22年(1889)以前には、久留米に流れる宝満川と博多に流れる御笠川が両都市をむすぶ主要な交通路であって、船底が川底につっかえて動けなくなると、川底の砂をスコップで除き、船を深みに押していった。

また、宝満川と御笠川の上流で荷を積みかえるときには、陸地を荷を担いで渡していった。そこには舟越、瀬越の地名が残っているという。

このように博多と久留米とをもっとも抵抗なく結ぶ最短距離の御笠川と宝満川の両河川を辿っていく時代がながくつづいてきた。博多と久留米をむすぶ主要道路としての役割を明治中期まで果たしてきた。

それは奴の国から不弥国を経て邪馬台国への道を辿るときも利用されたコースにちがいなかった。

(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)

亀山さんによれば、両河川が最接近していた場所は、いまの筑紫野市、鹿児島本線の「天拝山」駅周辺とのことだ。


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