桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者は誰だ

ヤマトの初期前方後円墳

「メスリ山古墳」から出土した「円筒埴輪」

2023年春に、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で見物してきた「メスリ山古墳」出土の「円筒埴輪」。

なんと高さは240cmもあって、誰でも思わず感嘆の声が出るはず。


以前、岡山の「津島遺跡」でみた「特殊器台」は高さ1mちょいだった記憶があるが、大和で育って見上げるほどの大きさになったのか。


墳丘長224mのメスリ山古墳の築造は、4世紀初頭。


この時代の天皇陵は「大和・柳本古墳群」といって、桜井市の北部(三輪山麓)から天理市にかけて「一代一墳」的に造営されているが、メスリ山古墳はもっと南。

3世紀末の「桜井茶臼山古墳」(207m)と二基、単体で桜井市南部に造られている。


地図で位置関係を示すと、こう。

(出典『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年)

図5 奈良盆地島南部の古墳群

(図5 奈良盆地東南部の古墳群)

桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳はいずれも200m超える墳丘長で、サイズだけなら天皇陵クラス。


ただ形が少し違っていて、大和・柳本古墳群の4基は前方部が「バチ形」に広がっているのに対して、こちらはほぼ長方形。

「柄鏡形」といわれてるようだ。


それと桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳ともに、まわりに濠(周濠)をめぐらせず、中小の古墳も伴わない。


考古学者の広瀬和雄さんは、天皇陵と「ほぼ同格だが、それに準ずる親縁的な有力首長」のお墓ではないかとおっしゃっているが、それは誰のことなんだろう。

桜井茶臼山古墳

(桜井茶臼山古墳)

大和・柳本古墳群

先に、大和・柳本古墳群について整理しておくと、いわゆる「大王墓」にはコンセンサスがあって、築造された順番は次の通り。


①箸墓古墳(280m)

②西殿塚古墳(219m)

③行燈山古墳(242m)

④渋谷向山古墳(300m)


この4基が一代一墳的に造営されていって、それ以降はもっと北の、今の奈良市「佐紀古墳群」に葬地は移っていったという。


4基の築造年代は、①箸墓には諸説あって早いと3C半ば、遅いと4C前半という学者もいるようだが、④渋谷向山が4C半ばから後半で、続く「佐紀古墳群」が4C後半〜というから、①箸墓まで4C台だと①から④までがギュウギュウに詰まりすぎている印象がある。


それに上の地図「図5」に見えるように、取り巻きの中少古墳群も同時に造っていくんだから、①が4C台というのは相当に慌ただしい。


また、初期の4基には並べられた「埴輪」にも特徴があって、そこには段階的な発展が認められるという。


①箸墓古墳・・・吉備発の「特殊器台」のみで「埴輪」なし

②西殿塚古墳・・・「特殊器台」と「円筒埴輪」の併用

③行燈山古墳・・・「円筒埴輪」のみ

④渋谷向山古墳・・・「円筒埴輪」に加え高度な「形象埴輪」も併用

形象埴輪

(形象埴輪)

①の箸墓を4C台にすると、こうした一連の「進化」がわずか30〜40年以内にバタバタと起こったことになってしまい、あまりにもせわしない気がする。


やはり「定説」であるところの、①箸墓3C半ば〜後半、②西殿塚3C末、③行燈山4C前半、④渋谷向山4C半ば・・・ぐらいのマッタリしたペースが古代人っぽいなーと思えばアラ不思議、長浜浩明さんが計算した崩御年と、何となく一代一墳が一致したりもする。


①第10代崇神天皇 241年崩御

②第11代垂仁天皇 290年崩御

③第12代景行天皇 320年崩御

④第13代成務天皇 350年崩御


・・・ま、崇神天皇は年代が全然合ってないが、箸墓古墳は何分にも日本では初めての280mという超巨大古墳で、しかも出雲や吉備、讃岐、丹後、近江、東海など、多くの弥生墳丘墓の要素を綜合する形で築造されたということで、そんなに簡単には設計図さえ決まらなかったことだろうと思う。


結局は試行錯誤の末、崇神天皇が崩御されて数十年経ってから完成したとしても、箸墓古墳については同情の余地が十分にあると、ぼくは思う。

メスリ山古墳

(メスリ山古墳)

桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳はなぜ南に離れて造られたか

桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳に話を戻すと、それがなぜ南に離れて造られたかの理由は、「東国への固め」という説が有力なようだ。


当時の東海道は、三輪山の南を東に向かい、伊賀から伊勢に抜けるのが一般的なルート。

そのルートで東国から大和に入ろうとすれば、盆地入口にそびえ立って出迎えるのが桜井茶臼山古墳だということらしい。


同じように、熊野から吉野を経由して北上してくれば、メスリ山古墳が否が応でも目に飛び込んでくるというわけだが、同じ役目を果たす巨大古墳は北にもあった。


京都府木津川市の「椿井(つばい)大塚山古墳」だ。


椿井大塚山古墳は、3C後半に造られた175m以上の前方後円墳で、広瀬和雄さんによれば築造当時は箸墓古墳に次ぐ大きさだっただろうとのこと。


つまり②西殿塚古墳よりも先にできていて、北にニラミを効かせるヤマトの有力首長のお墓だと、考えられるんだそうだ。

椿井大塚山古墳

(椿井大塚山古墳  出典:木津川市公式サイト)

被葬者は誰か

それじゃーそれら3基の古墳の被葬者は誰なのか。


まず一番古い京都府木津川市の「椿井大塚山古墳」だが、①箸墓より後で②西殿塚より前の築造というと、第11代垂仁天皇の世代の人物だ。


その時代に北を固めたヤマトの有力首長といえば、垂仁天皇に皇后(ひばすひめ)を出して、第12代景行天皇の外祖父になった、四道将軍「丹波道主命」が思いつく。


第9代開化天皇の孫で、彦坐王の息子は、近代なら「筆頭宮家」といった地位だろう。将軍というぐらいで、北へのニラミも鋭く効いたはず。


②の西殿塚と同じ頃に築造された「桜井茶臼山古墳」には、垂仁天皇の弟で、父の崇神天皇から「東国」を任されたという「豊城入彦命」が思いつく。


トヨキイリヒコはのちの東国最大の大豪族「毛野氏」の祖だが、ご本人が東国で薨去したという記録はないようだ。

力士埴輪

(力士埴輪)

4C前半の築造という「メスリ山古墳」は、墳形が柄鏡形で桜井茶臼山古墳と「同じ」という点が気になる。


というのも、崇神天皇と「同じ」ように垂仁天皇も二人の皇子に望むものを聞いていて、このとき「皇位」を望んだ景行天皇に対して、実兄の「五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命」は「弓矢」を望んだというエピソードが日本書紀に残っているのだ。


つまりは「同じ」ように皇位を兄弟にゆずった皇子が、二代続いたということだ。


面白いことに考古学者の豊島直博氏によれば、メスリ山古墳の副葬品からは、その被葬者には各地から集められた槍先から槍を作り、各地に再配布した人物が想定されるという。


んで日本書紀を見てみれば、イニシキ皇子は垂仁天皇39年に「剣1000口」を製造して、武器庫の石上神宮にストックして管理したという記述があるわけだ。

わが国最初の防衛大臣といった感じだろうか。


なお日本書紀には、垂仁天皇87年にイニシキ皇子は「老齢のため」石上神宮の管理から引退したとあるが、仮に母のヒバス姫が皇后になって即懐妊した子だとしても、(長浜浩明さんの計算では)当時まだ36才。


メスリ山古墳が、弟の景行天皇の③行燈山古墳と前後して築造されたとしても、何もおかしいことはないと思う。

渋谷向山古墳で統合された二系統

『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年

ところで考古学者の千賀久さんによれば、①箸墓〜②西殿塚〜③行燈山とつづいた天皇陵の系列と、東国にニラミを効かせた桜井茶臼山〜メスリ山の系列は、古墳時代前期では最大サイズ(300m)の④渋谷向山の造営において、「統合」されたのだという。


その理由は「王権の安定期を迎えた」からだそうだが、だとするとその被葬者の時代に「東国」は平定されたことになるわけで、ぼくにはそれに相応しいのは成務天皇として即位したヤマトタケル、という気がするが、・・・まぁそれは個人の感想ということで。