邪馬台国への道(1)伊都国
(平原1号墓と三雲南小路遺跡)
糸島市の平原1号墓
邪馬台国時代の「伊都国」の王墓といわれる、福岡県糸島市の「平原(ひらばる)1号墓」。
東西14m、南北10mの「方形周溝墓」だ(2022春見学)。
ここからは40面という国内最多の鏡が出土していて、うち最大のものは直径46.5cmというデカさだ。
副葬品にピアスがあることや、46,5cmは「八咫」であることから、発掘を担当した原田大六さんは被葬者は女性で、ズバリ天照大神である!と発表したんだとか。
糸島市の三雲南小路遺跡
伊都国の弥生王墓としては一番古い、「三雲南小路遺跡」。
何もない原っぱだったが、築造当時は32mx31mの平面のうえに、2mほどの土が墳丘に盛ってあったらしい。
2基の甕棺墓は男女カップルのもので、邪馬台国で見られる女性シャーマンと男性の実務家という「ヒメヒコ制」が、弥生中期(2000年前)にはすでに確立していたことが分かるんだそうだ。
『露見せり「邪馬台国」』
さて、邪馬台国探し系の本は沢山あるが、ぼくが一番感銘を受けたのはこれ。
『露見せり「邪馬台国」』(2013年)。
著者の中島信文さんは東北大学工学部を卒業後、自動車部品メーカーに勤務された理系さん。
古代の漢文を、機械の仕様書を読むように読む独特の視点をお持ちで、魏志倭人伝は陳寿という優れた文才が精緻に書き出した、いたって正確な記録だとお考えだ。
「水行」と「陸行」
まずは用語の「定義」について。
魏志倭人伝でいつも問題になる「水行」と「陸行」だが、倭人伝だけじゃなく『三国志』全体から考えた場合、この「行」は「行く」ではなく「行う」だと、中島さんは書く。
そして陳寿は、それぞれの「行」を厳密に分類して使い分けているのだと。
具体的には、こうだ。
・「渡海」=海だけを使って移動する行(程)の状態、旅
・「行」=陸と川や沼沢地を半々ぐらい使って移動するような行程の状態(の旅)
・「水行」=川を主体に利用し、時には陸地に上がり海も少しは使い移動する行程の状態の旅
・「陸行」=陸を主体として移動し川や沼、海も少し使い移動する行程の状態(旅)
・「海行」=海を主体として移動し川や沼、陸も少し使い移動する行程の状態(旅)
・「船行」=船を使い海や川を主体に陸も少し使う行程の状態(の旅)
・「乗船」=船だけに乗って川を行くことや海を渡る行程、旅。
そして陳寿が「水行十日」と書いたのは、それは毎回毎回10日かかるという「距離」の意味ではなくて、実際に魏使が旅したときには、何だかんだで10日かかったよ、という「期間」(滞在日数)の記録だとお考えだ。
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「里」
つづいて同じく問題にされる「里」。
中島さんは、魏志倭人伝における「里」はあくまでも移動した距離、走行した距離のことで、直線距離のことではないという。
そして当時の中国人が、倭よりも正確に把握していた朝鮮半島の記録「魏志韓伝」から、「一里」を「75〜90m」だと計算する。
魏志倭人伝を検討する
そうやって用語の定義を確認したうえで、いよいよ魏志倭人伝の記述を検討していく。倭人伝に書かれた条件を満たす場所を、順番に探していく。
評価条件①=「末盧(まつら)国」は「壱岐」からの航行距離が約85km、直線距離で50km以内。
評価条件②=「末盧国」の地理的な条件は、路のない密林と断崖絶壁の浜。官もいない。
評価条件③=「末盧国」から「伊都国」の陸上行程は難コース。
評価条件④=「末盧国」から「伊都国」へは移動距離で東西に約42km、直線距離で13〜16km。
評価条件⑤=「伊都国」は交通インフラの整った、拓けて緩やかな丘陵地帯。
評価条件⑥=「伊都国」は海岸に近くて、外洋船が留まれる、やや深い津がある。
評価条件⑦=「奴国」は「伊都国」から東南に移動距離で8.5km、直線距離で5〜6km。
評価条件⑧=「不弥(ふみ)国」は「奴国」から東に、湿地帯を直線距離で5〜6km、河の洲(扇状地)にある。
評価条件⑨=「不弥国」には南に流れていく、ゆったりした川がある。
評価条件⑩=「伊都国」から「投馬国」までのルート(コース)は、整備されて固定されている。
んで、地図を見ながら条件に合う場所を挙げていって、一つ一つ詳細に検討していった結果が、上の「表2」。
「末盧国」は、・・・糸島市だ。
おー、ぼくらが「伊都国」だと思ってウロウロしてきたのは、なんと「末盧国」だったのか。
「伊都国」はもうちょっと博多方面に進んで、西区のあたりか。
「吉武高木遺跡」とかも、見ておけばよかったな。
「邪馬台国への道(2)奴国 (安曇族の工業立国)」へつづく