西暦210年頃、崇神天皇、疫病を解決する
〜銅鐸の終焉と箸墓伝説〜
龍田大社、広瀬大社の創建
2020年末に参詣した、奈良県生駒郡の名神大社・官幣大社で「龍田大社」。
公式サイトによれば、凶作や疫病に悩む崇神天皇の夢に「大神様」が現れて、自分を「龍田の立野の小野」に祀れと託宣を授けたことが、龍田大社の創建だという。
こちらは同・北葛城郡の名神大社・官幣大社で「広瀬大社」。
公式サイトによれば崇神天皇9年、この地の「里長」に神託があり、「沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られ」たことが創建の縁起なんだそうだ。
「日本書紀」には、崇神天皇7年に八十万の群神を祀って「天つ社」「国つ社」と「神地」「神戸」を定めたと書いてある。
龍田大社、広瀬大社の創建は、その動きの一貫にあったんだろう。
消えた高天原
(大神神社)
思えば初代の神武天皇の頃は、いい時代だった。とにかく「天神地祇」を祀れば万事OKで、時には「天つ神」が助太刀をしてくれることもあった。
天皇と天つ神は一体だった。
しかし時が流れて第10代の崇神天皇の時代になると、もう「天神地祇」への祭祀は有効とは言えなくなっていた。
崇神5年に疫病が大流行し、6年には百姓の流離や反逆が起こると、天皇は朝から晩まで天神地祇を祀って謝罪をしたが、まるで効験がなかった。
天皇は思わず、天神地祇の「咎」を受けているのでは・・・と嘆く。
崇神天皇にはもう、天つ神の守護がなくなっていたんだろうか?
なにしろ、神武天皇の頃は高天原から見守っていた皇祖神・天照大神は、崇神天皇の時代には「同床共殿」で宮中にいたのだ。
高天原は一体どこに消えてしまったんだろうか。
大和の銅鐸の終焉
(加茂岩倉遺跡ガイダンス)
さて崇神天皇の在位は、長浜浩明さんの計算によれば西暦207〜241年。
上記に限らず、崇神天皇の時代には「祭祀」にまつわる事件がいろいろ起こっているが、実はそのことは考古学のFACTからも確認できるようだ。
まずFACTの一つ目は、弥生時代に全国的に使われてきた祭器「銅鐸(どうたく)」の、終焉だ。
2007年、2008年に三輪山に近い弥生遺跡から、2世紀末から3世紀初頭にかけて破壊されたとみられる銅鐸の破片や、フイゴ羽口、銅滓が見つかっているのだという。
これらを調べた考古学者の石野博信さんによれば、銅鐸はそのころ破壊されて、他の青銅器の材料にされていたんだそうだ。
「弥生時代のカミまつりのシンボル」がぞくぞくと破壊される異常事態が発生していた、とご著書には書いてある。
(『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』2008年)
纒向石塚古墳の登場
FACTのもう一つが、3世紀前半の奈良盆地に出現した、巨大墳墓だ。
弥生時代の西日本各地では、すでに「弥生墳丘墓」と呼ばれるデッカいお墓が築造されていたが、どういうわけか大和盆地には巨大墳墓の伝統がなかった。
そこにいきなり全長100mの「纒向石塚古墳」が登場した。
まだ前方後円墳のプロトタイプとも、大和初の弥生墳丘墓とも結論は出ていないようだが、とにかく大和にもドデカいお墓が誕生した。
んで、これに続く築造と見られている「ホケノ山古墳」から始まる展開が、凄く面白い。
ホケノ山古墳の内部には、何と「神殿」があったんだそうだ。
しかもその神殿はどうやら、本を伏せた形の屋根の「切妻造」になってたらしく、つまりは伊勢神宮に代表される「神明造」が古墳の中に埋められていた可能性があるんだそうだ。
閉じこめる墓、ホケノ山古墳
さらに面白いことに、このホケノ山古墳は「閉じこめる墓」でもあったらしい。
遺体を安置した建屋の屋根には河原石が敷き詰められていて、やがて天井の木材が腐ると石が落下して棺を埋め尽くす・・・そういう仕掛けだったらしい。
考古学者の清水眞一さんはこの仕掛けを、「被葬者の魂が棺や槨のなかから逃げ出さないように」「棺内をがんじがらめにする」構造だと書かれている。
(『最初の巨大古墳 箸墓古墳』2007年)
でも、なんで死者の魂をお墓に閉じこめるような、埋葬の方法が必要だったんだろう。
去来するカミから常住するカミへ
弥生時代、人々は銅鐸をガラガラ鳴らしながら「去来するカミ」を人間社会に降ろしてきて、豊穣を祈念する祭祀を行っていた。
しかし崇神紀の疫病蔓延のエピソードに見られるように、「天神地祇」への祭祀は限界を迎えていた。
そこで必要になったのが「去来するカミ」を閉じこめて、「常住するカミ」に変換させることだった。
その「常住するカミ」になったのが、「亡き首長」たちだったと、考古学者の広瀬和雄さんはいう。
広瀬さんは、前方後円墳による祭祀とは「亡き首長がカミと化して共同体の再生産を保障する」システムだとおっしゃる。
ようは、首長の実の子孫が、ご先祖さまを「カミ」として祀る信仰が、前方後円墳の誕生と共に始まったということだろう。
これは日本書紀・崇神紀の、天皇による天神地祇への一括した祭祀を否定して、実の子孫(わが子)による祭祀を望んだオオモノヌシらの伝承と、シンクロしているようにぼくには思える。
箸墓の伝説
(『妖怪ハンター』諸星大二郎)
その一方で、オオモノヌシこそが「去来するカミ」だった。
日本書紀・崇神紀には、「箸墓伝説」と呼ばれる説話がある。
三輪山の神、オオモノヌシは、皇女の「倭迹迹日百襲姫命」と結婚したが、夜にしか姿を現さなかった。
姫が朝までいて欲しいと望むと、オオモノヌシは姿を「小蛇」に変えて櫛箱の中に留まったが、その姿を見て姫が驚いて叫んだため恥辱を受けたと怒りだし、山に去って行ってしまった。
姫は悔いて地面に座り込み、そのとき箸で陰部を撞いて死んでしまった。
それで姫のお墓を「箸墓」と呼んだ。
昼は人が造り、夜は神が造ったという・・・。
この説話が意味することは、「去来するカミ」が去ってしまった後、今度は人間が「常住するカミ」として祀られるようになった、ってことじゃないだろうか。
"昼"と"夜"のくだりは、この頃に神と人が分離してしまったことを暗示しているように、ぼくには思える。
「箸墓伝説」は崇神天皇10年のことで、長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろ。
奈良盆地で初めての前方後円型のお墓「纒向石塚古墳」は、石野氏によれば210年ごろの築造だという。