魏志倭人伝の「水行」と「渡海」の意味
〜邪馬台国は南か東か〜
魏志倭人伝の「水行」
(吉野ヶ里遺跡 写真AC)
亀山勝さんの『安曇族と住吉の神』(2012年)を読んでいたら、巻末に付録「余波」として「魏志倭人伝・訳文への疑問」という記事が載っていた。
「魏志倭人伝」の謎は、煎じ詰めれば「水行」をどう読むかに尽きる。
「水行」を、対馬海峡と同じように「海を渡る」と考えると、邪馬台国は遠く南洋の沖縄や台湾になってしまう。
それを日本列島内に収めるには、方角を「南」から「東」にねじ曲げるしか方法はない。
昭和の先生方はそう考えたようだが、海洋学の専門家で海を知り尽くしている亀山さんは、どう考えたのか。
魏使のルートへの7つの疑問
まず「魏志倭人伝」の冒頭部分、帯方郡から対馬までの魏使のルートはこう(岩波文庫)。
《原文》従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里 始度一海千餘里至對海国
《和訳》郡(帯方郡)から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国にゆくのに七千余里。
はじめて一海をわたること千余里で、対馬国につく。
ここに亀山さんは、6つの疑問があるという。
①和訳にあるように一般的に魏使は、朝鮮半島の西海岸沿いの海を船で進んだと解釈されている。
しかし亀山さんに言わせれば、半島の海岸線近くは非常にリスキーな難所つづきで、それなら沖合を進んだ方が安全だという。
②「循海岸水行」の「海岸」は陸地も指しているんだから、途中まで海に沿って陸を進み、それから「水行」した可能性もあるのではないか。
③船で海を進んだのなら、なぜ「韓国を経て」になるのか。
④なぜ対馬に直行せず、「狗邪韓国」に寄港しているのか。
⑤「狗邪韓国」は朝鮮半島の南端なのに、なぜ「北岸」というのか。
⑥海を進んできたなら、なぜ対馬へは「はじめて」海を渡ったと書くのか。
その後の対馬から邪馬台国までのルートについて、移動に関わる部分を抜粋した書き下し文がこう。
また南一海を渡る千余里、名づけて渤海という。 一大国に至る。
また一海を渡る千余里、末慮国に至る。
東南陸行五百里にして、伊都国に到る。
東南奴国に至る百里。
東行不弥国に至る百里。
南、投馬国に至る、水行二十日。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
そこで亀山さんの7つ目の疑問はこう。
⑦それまで海は「渡る」だったのに、なぜ「投馬国」と「邪馬台国」へは「水行」なのか。
「水行」とは何か
亀山さんによると、魏志倭人伝が収録されている陳寿の『三国志』全65巻のなかで、「水行」が出てくるのは、何と!上に引用した3箇所(韓国・投馬国・邪馬台国)だけなんだそうだ。
非常にスペシャルな用語だということだ。
他の文献にはないかと亀山さんが探したところ、司馬遷の『史記』全130巻に3回「水行」が出てくるそうで、その実際の用法はこんなかんじ。
陸行乗車 水行乗船 泥行乗橇 山行乗暐(夏本紀第二)
陸行載車 水行載舟 泥行蹈橇 山行即橋(夏渠書第七)
これ以外だと、『史書』の「越絶書」のなかで、越王が「越人は山だって水行する」と言っているようだ。
さて、『史記』からの引用を見るかぎり「陸、水、泥、山」は陸上での移動方法についてアレコレ語っているところで、ここでの「水行」が海を渡ることを指しているとはチト考えにくい。
越王のセリフも同じだろう。
それで逆に、亀山さんは『三国志』のなかに「川行」「河行」の単語を探してみたら、これが全く見当たらないのだという。
ならば考えられるのは、『三国志』では、川(河)を行くことを「水行」と表現しているのではないか、ということだ。
すると倭人伝冒頭の対馬までのルートが、これまでと全く違った姿を現してくる。
魏使の一行は、ソウルから漢江水系をさかのぼり、洛東江水系をくだることで金海に出たのではないか。
それは下の「図5-2」で、半島のど真ん中を突破するルートだ。
それなら亀山さんの「疑問③なぜ韓国(馬韓)を経てなのか」も、「疑問④なぜ対馬に直行せず金海に行ったのか」も、「疑問⑤なぜ半島南端を北岸と言ったのか」(見えたのは対馬の北岸)も、「疑問⑥なぜ対馬行きが初めて海を渡ることだったか」も、すべての謎に答えることができる。
魏志倭人伝のなかで魏使が海を渡ったのは、「狗邪韓国」から「末慮国」までの間の、対馬海峡だけだったというわけだ。
「水行」する魏使の目的
魏使が対馬海峡しか海を渡っていない(=九州から出ていない)ことは、倭人伝の記述からも分かるという。
倭人伝では、海を渡ったときは「度一海」「距離」「至」「国名」のパターンを繰り返す。ところが「水行」のときは、「南」「至」「国名」「水行」「日数」に変わっている。
もしも「水行」が海を渡るという意味なら「南水行二十日至投馬国」と書かないと、記述構成がおかしい。
つまり「二十日」は、移動した「距離」を「日数」に置き換えたものではない。
それで亀山さんが目を付けたのが、そもそもの魏使の目的だ。
魏志倭人伝が含まれる『三国志魏書』「烏桓鮮卑東夷伝」を全体として読むと、そこでは大きく「武力調査」と「経済調査」が二大テーマになっていることが分かる。
そしてそうした調査を経て、魏が卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えてるところから見て、魏使の目的は「冊封国の選定」の予備調査だったと考えられる。
ならば「二十日」とは、移動日数ではなく、調査に要した「滞在日数」だったんじゃないか(役人の報告書なので)。
それなら「水行二十日」「陸行一月」というわりには、移動したなら書くはずの途中の国々や寄港地についての情報がゼロなのも、理解できるというわけだ。
邪馬台国大和説(畿内説)の「キモ」
長年の邪馬台国・大和説への支持を捨てて、九州説に「転換」された高名な歴史学者に、故・門脇禎二さんがいる。
門脇さんは京都大学の学生時代、宮崎市定、小林行雄といった先生の影響下、当たり前で自明のこととして、邪馬台国大和説を受け入れていたんだそうだ。
ところがご自身の研究テーマである「地域王国」の探求が深まるにつれ、弥生時代末ごろの吉備や出雲、丹後などを統合するような「女王国」が、奈良盆地にあったと考えることが「不安になった」という。
それで改めて、初心に帰って「魏志倭人伝」の読み込みを始めたところ、大和説への不安は反発に代わり、ついには九州説を確信するに至ったんだそうだ。
(出典『邪馬台国と地域王国』2008年)
門脇さんによれば、邪馬台国大和説を支持するための「絶対的必要条件」が二つあったという。
一つは倭人伝に書かれた「距離」の問題で、これは上の方で亀山さんが説明していることと概ね被る。
もう一つが「方位」の問題で、大和説を支持するためには、「不弥国」から「投馬国」、「投馬国」から「邪馬台国」へ向かう方位「南」を、「東」にねじ曲げる作業が、絶対に必要になるという。
この時よく使われてきた地図が、上の「図3 混一疆理歴代国都之図」で、ここに描かれた90度傾いた日本列島が、古代中国人が共有したイメージだと喧伝されてきたそうだ(日本列島南展説)。
ところが調べてみると、この地図は1402年に朝鮮で製作されたもので、朝鮮半島も日本列島も、そのとき初めて加筆されたものだったそうだ。
魏志倭人伝には「倭(九州と島嶼部)」の周囲は5000里、「韓(今の大韓民国)」の周囲は4000里と書いてあるわけで、半島がデカすぎる「混一疆理歴代国都之図」がその知見を無視して描かれてるのは、3世紀の魏の使者でも分かる話だ。
なお、この地図が説得力を失ったあと、大和説が方位の「南」を「東」にねじ曲げる件について、どんな説明をしているのかは・・・残念ながら、門脇さんの本には書いてなかった。
ただこの「方位」を説明できない限り、いくら大和の「纒向遺跡」や「箸墓古墳」を精緻に復原させたところで、それは「魏志倭人伝の邪馬台国」ではない、別の政体の存在を証明しているに過ぎないように、ぼくには思えるのだった。