古事記と日本書紀は、誰が書いて、誰が読んだのか

菅原道真と国史

太宰府天満宮・拝殿

福岡県太宰府市で、菅原道真を祀る「太宰府天満宮」。

奈良・平安の時代に勅命で編纂された六部の歴史書を「六国史」というが、さすがは学問の神さまだけあって、菅原道真も第6弾の『日本三代実録』(901年)に参加しているのだとか。


もちろん他も、当時の国内最高レベルの頭脳が集められたことだろう。

太宰府天満宮・神門

ところでぼくらが7世紀以前の古代について知ろうと思ったとき、まず手に取るのは『古事記』と『日本書紀』だろう。


ただこの両書は、似ているように見えて結構ちがう。

内容はもちろん、成立までの経緯、成立後の読まれ方なんかも全然ちがう。


まぁこんなサイトを読む人には常識の範疇だろうが、少し簡単に整理しておきたいと思い。

古事記と日本書紀はいつ成立したのか

日本書紀の最終的な編纂がいつ始まって、いつ完成したかは、日本書紀に続く国史第2弾、『続日本紀』(797年)に書いてある。

そのスタートは和銅7年(714年)2月10日のことで、二人の貴族に国史撰修の命令が下されている。

二月十日 従六位上の紀朝臣清人と正八位下の三宅臣藤麻呂に詔し、国史(日本書紀か)を選修させた。 


(『続日本紀・上』講談社学術文庫)

そして、その6年後の養老4年(720年)5月21日にそれは(いちおう)完成し、故・天武天皇の皇子、舎人親王の手で奏上された。

『続日本紀・上』

一方、古事記は、古事記に付けられている「序文」以外に、それがいつ成立したかを証言してくれる客観的な史料がない。


たしかに「序文」がいう撰者、「太安万侶」は実在していて、続日本紀に4回も昇進の話題が出てくるうえに、養老4年に没したという記事もある。

その物証である「墓誌」さえも発掘されている、上級国民だ。


なのに、太安万侶の大偉業とも言える古事記の選録については、続日本紀の和銅5年(712年)の条に何の言及もない。

つまり国家の記録に、古事記のことは何も書かれていない。


古事記が初めて他の文献に登場するのは、「序文」が自己申告する成立年よりも、100年も後のことなんだそうだ(『弘仁私記』)。

日本書紀

古事記と日本書紀は誰が書いたのか

また日本書紀は、言語学者の森博達さんなどの研究によって、かなり細かく執筆者の推定が進められている。


まず巻14〜21(雄略〜崇峻)と巻24〜27(皇極〜天智)は、持統天皇の時代に「続守言」と「薩弘恪」という中国人が、「正音・正格漢文」で述作した。

この二人の中国人は、中国北方の標準音を教授する「音博士」だ。


つづいて巻1〜13(神代〜允恭)、巻22〜23(推古〜舒明)、巻28〜29(天武)を、文武朝以後に、「山田史御方(やまだのふひとみかた)」という人が「倭音・和化漢文」で撰述した。


最後に714年、元明天皇の勅命で、「紀朝臣清人」が巻30(持統)を述作し、「三宅臣藤麻呂」が全体を潤色・加筆した。


・・・というのが森博達さんによる概観だ。

(『日本書紀の謎を解く』1999年)

『日本書紀の謎を解く』

一方、古事記はその「序文」によれば、天武天皇が稗田阿礼に「帝紀」「旧辞」を「誦習」させ、これを元明天皇の命令で太安万侶が「選録」し、和銅5年(712年)に完成したものだという。


「誦習」というのは「丸暗記」ではなくて、文字の読み方をマスターすることだというが、それでも天武天皇が稗田阿礼にそれをさせてから、実際に太安万侶が文章にまとめるまで、約40年も時間が流れている計算だ。


40年間、稗田阿礼ひとりが関与した古事記に比べると、同じ天武天皇が詔した日本書紀の方は、川嶋皇子ら12人の皇族と豪族が参加したと(日本書紀に)書いてある。


古事記への高評価は、稗田阿礼(という謎の人物)の、完全無欠の無謬性が前提になっているように、ぼくには感じられる。

古事記

古事記と日本書紀は誰が読んだのか

世の中には国家権力に必要以上の嫌悪や警戒心を向ける人がいるもので、日本書紀に始まる「六国史」も、そういう視線に晒されてきた歴史があるようだ。


しかし「誰が日本書紀の読者であるのか」を考えたとき、歴史のすべてが権力者に都合良く書き換えられたとは限らない、という話もある。

このように考えると、『日本書紀』が完成した当初の読者は朝廷に仕える官人たちだった。


『日本書紀』持統天皇5年(691)8月をみると、詔により18の古代氏族——大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇氏が「その祖らの墓記」を提出している。 


この18氏族は史書の編纂を進めていた朝廷に、自氏の祖に関わる記録・伝承を提供していた。

その彼ら官人たちに講義を行い、彼らが読者になったのである。 


(『六国史』遠藤慶太/2016年)

遠藤さんによれば、大宝律令や養老律令がそうだったように、日本書紀も「講書」を前提としてまとめられたそうで、完成の翌721年には「日本紀講」が行われている。


そこには上の引用で羅列されるような豪族が集まっているわけで、「勅撰の権威があるとはいえ、一方的な歴史を提示することは難しい」と遠藤さんはお考えだ。

『六国史』遠藤慶太

さて、古事記を読んだ人も、もちろん中央の貴族だったようだ。


812年に開かれた「日本紀講」の際に、訓詁(字句の解釈)について筆録した「弘仁私記」のなかに、文献史上、はじめて古事記の名前が登場している。


で、そのポジションはというと、日本書紀の「読み」を学ぶための参考書、副読本だったようだ。


902年に開かれた日本紀講で、オススメの参考書を聞かれた文章(もんじょう)博士の矢田部公望は、「先代旧事本紀や上宮記、古事記なんか、いいんじゃね? あと大倭本紀とか仮名日本紀とか」と答えているそうだ。


3番目か・・・まぁそのくらいの地位だったんだろう。


古事記が、現在のように「記紀」とかいわれて日本書紀と肩を並べるようになるのは、1798年(225年ほど前)に本居宣長が『古事記伝』を完成させてから後のことらしい。

そういえば、ネットやムック本などで「日本書紀は海外(中国)向け、古事記は国内向け」みたいな説を見かけることがあるが、それはただの漠然としたイメージで、そんなFACTはどこにもないようだ。